テーマ:周易参同契正義

ただひたすらに!【8-2】

内丹の道も、自然の理を体得していなければ、奥義を得ることはできないし、いろいろな弊害も起ころう。陰陽や日月、八卦、男女、剛柔、動静といったもので示される自然の理を、よく知らなければならない。自然の理である「道」から、いろいろな教えである「法」が説かれている。この「法」を通して人々は道を体得しようとするのである。道の奥義に至ろうとする者は…
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「形」を使う【8-1】

『周易参同契』を読む者は、言外にある道をよく理解しなければならない。少しの言葉の深い意味をよく知らなければならない。太古の聖なる王は、自然のままに国を建て、古代の賢君は自然のままの政(まつりごと)を行った。統治者には統治者の務めがある。官吏には官吏の務めがある。これを混同してしまっては、自然のままの政治はできない。平和な世の中も訪れるこ…
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常道を知る【7-5】

花が開くときもあれば、枯れてしまうときもある。自然とは一様な世界ではない。おおいなる変化の世界なのである。この世は変化をするものである、ということを悟ることができれば、心安らかに、生きていくことができよう。 物的、霊的なもの、すべて変化をする。しかし、道は変化をすることがない。道は虚であり、これをそのままで捉えることはできない。 …
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気楽ということ【7-4】

時を経れば、自然に反したものは自ずから滅びてしまう。自然の中にあって、自然を楽しむ。物的世界と霊的世界とを気ままに歩く。こうして神仙道の奥義を体得していくわけである。そこは静かであり、時の煩わしさもなく、ただ気楽に活きている。 神仙道の根本原則とは「余計なことはしない。足りないくらいが、ちょうど良い」といったところにある。 …
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引力の鍛錬【7-3】

内丹の道においても、自然な陰陽の働きの理を知ることが大切であることは言うまでもない。あるいは外丹といって何か物的なものを採ったりする方法もあるが、これはよろしくない。内丹の道は、霊的な道であることを知らなければならない。内丹の道も、易や道家と同じく自然の根源的な生命力をベースとするものなのである。わたし(魏伯陽)は、『周易参同契』で…
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無為自然の体験【7ー2】

導引養生の法や道家の教えは、自然のままを良しとするものであり、ここには深い徳が含まれている。生命の根源へと回帰する道でもある。こうした道は、自分の心にすべて備わっている。自分というものを離れて、自然の道の奥義を体得することなどできるべくもない。 読書の達人として有名な松岡正剛の『多読術』には、読む本によって環境や服装を変えると良い…
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一隅を照らす【7-1】

会稽の田舎者であるわたし魏伯陽は、静かなところで生きて、単純な暮らしをしている。権力も名誉も欲しいとは思わない。ただ片田舎で道を修していればそれで良い。なのごとにも執着することなく、多くを願わず、心安らかでいる中に、この『周易参同契』を編んだのでいる。『周易参同契』には、易の道を説き、古代の聖人の言わんとするところのエッセンスを記してあ…
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三つの柱【6-3】

易、道家、内丹の道は、それぞれ枝であり、花や葉であり、実なのである。重要なことは、これらが根から出ているということである。根とは誠の心のことである。これを忘れないでいれば、道を誤ることはない。 『周易参同契正義』では「枝」であるとされる「易」は「陰陽の交わり」を象徴するもので、「花や葉」とされる「道家」は「根源の生命力への回帰」、…
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「秘密教義」を読む【6-2】

道家も内丹も、すべては易から生まれたものである。易を知り、道家を究めることで、正しく内丹の道を修することができる。しかし、つまるところ易も道家も内丹も、すべては根源は宇宙のおおいなる根源としての「道」に帰せられる。それぞれに特色を持った「道」を知ろうとする方法として、易や道家、内丹が生み出されたわけである。 神智学を提唱したブラバ…
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自在を体得する【6-1】

『周易参同契』は、神仙道のおおよそを述べたものである。あえて整理することをしないで、同じことを繰り返しているところもある。奥義を直接に語ることなく、あるところでは、奥義の周辺の事柄をも含めて書いている。また、あるところでは、奥義を簡単にしか書いていない。しかし、奥義、秘伝について欠けることのないようにはしている。いろいろな書き方で、書き…
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気楽に遊ぶ【5-3】

心身に静を感得したなら、それを逃がさないように育てなければならない。適度に遊ばせて、次第に大きく育てるのである。静の感覚が正しく育てられたなら、最後には根源の感覚を得ることができる。根源の感覚とは、「むすび」の感覚である。離そうとしても、離れられないような静謐な調和と和合の感覚である。 『周易参同契正義』には、「玄牝の気を遊ばせる…
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築基と温養【5-2】

日々、月々、年々、とぎれることなく心身を、あるべき状態にあるようにする。それには心に静を得なければならない。心に静を得るとは、体に静を得るということである。これら心身の静が、ひとつになり、均衡を得て働くようにならなければならない。心身に静を感得したなら、これをじっくりと熟成させることが大切である。 『周易参同契正義』では「百日で基…
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効率化とリスク管理【5-1】

水と火は一気に帰する。一気からは両儀が生まれ、両儀からは四象、八卦が生ずる。こうした中には陰陽の気が等しく働いている。陽気は上り、陰気は下る。体をまっ直ぐにして、柔らかな気持ちで瞑想をすれば、陰陽の気は自然と活性化される。陰の気は、陽の気へと変じ、陽の気は陰の気へと変じる。変転がおきることで、上昇、下降の運動となるのである。 あら…
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大道と妙道【4-2】

神仙の術とは、まことに妙なる術である。そうであるから、これをいい加減に考えてはならない。よく注意をして後世に伝えなければならない。それには、よくよく道理を知らなければならない。天の川は星の集まりである。水は海へと流れる。天の川は、一見すると光の帯のように見えるが、そうではない。水は西でも、東でも、北でも、南でも流れていくが、最後には海に…
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気づきの力【4-1】

自然の中での変化には、邪であったり、偽りであったりするような変化はない。地上の水が蒸発して雲となる。雲は、また雨となって地上にもどってくる。泥は乾けば砂となる。物が燃えれば灰になる。黄色の染料を使えば黄色に染まるし、藍色では藍色になる。接着剤のにかわは、皮を煮てつくられる。酒はこうじからつくられる。このようにものが変化をするには、一定の…
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道と法と術と【3-3】

先天の一気は、後天の陰陽へと変化をする。後天の陰陽は、また先天の一気へと収斂される。変化といっても、それは本来のあるべき状態へともどっているに過ぎないのである。内的にも、外的にも、おおきな変化が生まれているように見えるが、それは自分の中に本来あったものが、現れ出た結果に過ぎないのである。 先天の一気は、「道」ということができる。「…
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最強の「武術」とは【3-2】

心身の変化は、思いも寄らない時に始まるものである。そして、思いも寄らない方へと向かう。この流れを止めることはできない。内的な部分でも、外的な部分でも、おおいなる変化が生まれる。内的な変化が、外的な変化を促し、外的な変化が、内的な変化に影響を与える。こうした中で、ただ淡々と修行を行う。自然な流れのままに任せておれば、自然に落ち着くところに…
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惰性の稽古【3-1】

心身が至静の状態となると、心は静まり、気は活性化する。至静は、心が肉体の静を導くことで達成される。至静となれば、心身におおいなる変化が生まれる。このときの心身の変化を不快に感じたり、不安に思ったりすることもあるかもしれないが、この変化は止めようとして止められるものではないので、そのまま成り行きに任せるのが良い。人の体には、心身のあるべき…
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人体と風水【2-2】

重要なことは、天と地の「関係性」が保持されていることである。これが崩れてしまうと、気は秩序を失って、適切な運動ができなくなってしまう。川は高いところから、低いところへと流れている。しかし、この川の途中が隆起したりすると、それまでの流れが変わってしまう。高低の関係性が崩れて、秩序が失われてしまうのである。天地や男女といったものも、「むすび…
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天と地と人【2-1】

天地は、神仙道の修行をする上では、最もおおいなるシンボルとされる。天の川は天をよぎり、星々は満天にきらめき秩序をもって動いている。こうした偉大な姿に感動しない人はあるまい。しかし、その星々の動きに異変が生じたならば、何年か後には必ず地上に異変として現れるものである。地上の統治者は、天の異変を見たならば、身を引き締めて、地の異変に備えたも…
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炉火純青の功を練る【1-3】

わたし(魏伯陽)は、神仙の道が、社会からの逃避の道であるといった誤解をされることを、ひじょうに悲しく思うものである。そうであるから、ここに書を著して、神仙道の核心となる教えを披瀝しているのである。森羅万象の奥義である道とは簡単であり、単純なものである。あるいは、わたしが同じことを、何度も書いていると思われるかもしれない。贅言が多いかもし…
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形にとらわれない【1-2】

わたしは、後の人が道とは何か、が分からなくなて、道を修することができなくなるのではないか、と心配して、この『周易参同契』を書いたのである。なんとか分かりやすく書いたつもりであるが、奥義にかんしては直接的な表現を避けたことろもある。ただ、これを熟読したなら、世にある間違った教えに惑わされることはあるまい。『周易参同契』を座右の書として、子…
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仁人、君子の功【1-1】

かつての聖賢たちは、天地の真理である道を悟り、ひたすらに功を練って、密やかに暮らしていた。心身のエネルギーは、豊かで活発に流れ、真理を実践して止むことがない。自然に心身は強く健康になって、あらゆる邪なものが入ってくることがなくなる。天地人のあるべき流れと「むすび」の中にあって、しだいに道と完全に一体となるのである。 『周易参同契正…
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道(タオ)を知るための心身〈12-2〉

たとえどのような良薬であっても、病気に合わないものであったり、投薬の時を間違えてしまえば、薬の持つ効果を充分に発揮することはできない。これと同じく、道にあったやり方でなければ、たとえ黄帝が力をつくしても、老子が親しく行っても、神々であっても、神仙道に通じていた淮南子に手伝ってもらっても、宇宙の奥義を知ることはできない。壮麗な神棚を作って…
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奥義を見る眼〈12-1〉

川辺に遊ぶ雄鳥は雌鳥を求めるものである。自然の鳥は、自然の道にたがうことなく相手を求めて、雄も雌もいつまでも一人でいることはない。玄武では亀と蛇とが、ひとつになっている。これは男女が互いに求め合うことの象徴でもある。たとえどのような美女であっても、女同士で生活していたのでは、死ぬまで居ても生成の働きが生まれることはなく、子供を得ることは…
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武術の徳を修する〈11-2〉

天地には「生」と「滅」の働きがある。春には「生」の働きが表れ、秋には「滅」を見ることができる。この世では「生」と「滅」が、規則正しく行われている。永遠なる終焉はない。終わりは、始まりとひとつなのである。すべての運動は「終わりと始まり」が、ひと連なりであることを、よく理解しなければ分からない。 『周易参同契正義』の秘訣 1、地にお…
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縦と横の軸〈11-1〉

火は水を得るからこそ、活かされるのである。森羅万象のあらゆるものは、「道」という秩序のなかにある。そして止まることなく運動をしている。これは自然でも、人間社会においても同じである。あらゆるものは「水」から生まれている。水と火と「むすび」の働き、これらが全ての働きの中核である。そして、こうしたものを統括するのが、ひとつの特殊な意識状態なの…
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ステムの枠組みを理解する〈10-3〉

「腎」と腎臓は同じではない。「心」と心臓も同じではない。「腎」は肉体の活力全般の働きを象徴するものであり、「心」は精神の働き全般をいうものなのである。これは、霊体の働きとすることもできる。 中国医学では、肉体の働きも、精神の働きも、共に「肝、心、腎、肺」といった臓器によって象徴的に捉えようとするのである。日本では江戸時代に、解剖を…
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「合気」と情報処理〈10-2〉

心と腎の「むすび」を得る最も優れた方法に、「トウ功」がある。日本では「立禅」といった方が通りが良いかもしれない。立禅は、神仙道では古くからある語で、行禅(散歩のようなもの)、坐禅などと共に用いられている。坐禅も良いが、個人的には、足に負荷がかからないので、腎の活性化という点において、少し弱い感じを持っている。 また、坐禅は、立禅に…
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相交の機〈10-1〉

『周易参同契正義』には、日は「徳」を施すものであり、月は「舒」を与えるものとする。 「徳」とは、いうならば生成の働きのことである。 「舒」とは、いうならば柔らかさのことである。 生成と柔らかさが、ひとつになった状態が、もっともあるべき状態と考える。老子は、これを「嬰児」に例えている。嬰児は、日々に成長を見せるものである…
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