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両儀堂 煉丹修道
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両儀堂公式ブログ 2015年6月20日よりブログ名を変更しました(旧「福徳円満」)

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タイトル 日 時
太上十三経注陰符経類解(4)
太上十三経注陰符経類解(4) 天性は人なり。人心は機なり。天の道を立てて、以て人を定めるなり。 〔「性」とは「理」のことである。「五賊」は「天の理」であり、つまりは「人の理」でもある。これは人にあっては心において働いている。そして、その働きとは相克の中に相生の働きがあるものなのである。盗の中に相宜があるのである。それをここではただ「機」の一字を以て述べているわけである。易翼には「天の道を立てることを陰と陽と曰(い)う」とある。これは天であることが地にもあるということであり、地にあることは人に... ...続きを見る

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2019/03/26 13:51
太上十三経注陰符経類解(3)
太上十三経注陰符経類解(3) 天に五賊有り。これを見る者は昌(さか)う。五賊は心に在て、天に施行す。宇宙に在りて、手、万化して身に生ず。 〔「賊」は以下にある「盗」と同じことである。「五賊」とは「五行」のことである。天には五行があり、相克しまた相生をする妙がある。相盗み、相蔵するの機がある。よく、その理を見たならば、そこには道気が盛んに働いていることがわかるであろう。五行は人の心の中にもある。人の心の中にあって五行は天とは反対に働いている。そして相克、相生して、相盗、相宜している。この妙を知... ...続きを見る

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2019/03/25 13:49
太上十三経注陰符経類解(2)
太上十三経注陰符経類解(2) 天の道を観(み)て、天の行(おこない)を執るに尽く。 〔「天の道を観(み)る」のところは、冒頭で「陰符」のことを述べているのである。老子の言う「功が成って、名を遂げたなら、身を退く。これが天の道である」である。またこれは陽気を補うということでもある。易の乾卦の象(シンボルの解説)には「天の行くことは雄々しく止まることがない。君子も自ら努めて止むことがない」とある。つまり「天の道を観る」とは、その生成して止むことのない姿を見るということなのである。冬至になると「退... ...続きを見る

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2019/03/24 13:48
両儀老人百物語 第六十七話(4)
第六十七話 十種の神宝と合気道(4) こうした意味では形意拳は「蜂の比礼」であり、八卦掌は「蛇の比礼」そして「種々品の比礼」は太極拳とすることができる。その前提となる剣、鏡、魂の修行は渾元トウでなされることになる。植芝盛平は大東流を使って十種の神宝の鎮魂を実現しようとしたのであるが、それだけでは十分ではなく「蜂の比礼」は松竹梅の剣、「蛇の比礼」は正勝棒術において模索されていたようなのである。そして「種々品の比礼」としては言霊の舞、合気舞とされるものがあったとされる。これは『武産合気』でも触れら... ...続きを見る

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2019/03/23 14:14
両儀老人百物語 第六十七話(3)
第六十七話 十種の神宝と合気道(3) それでは十種の神宝が教える鎮魂法とはどのようなものであるのか。日本の伝承では適切な用語がないので、これを内丹術にかりて簡単に説明をしておこう。 「十握の剣」は、天の御中主の神の境地である。これは自分の中の中心感覚を得る段階である。これが完全にできれば修行は完成する。また、この感覚が全く無ければ修行に入ることができない。内丹術では「煉己」とされる。「虚」の感覚を得るともいうが、ある種の超感覚を得るとすることもできよう。八卦掌ではこの要訣として「四病」をあげ... ...続きを見る

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2019/03/22 14:13
両儀老人百物語 第六十七話(2)
第六十七話 十種の神宝と合気道(2) 一般的に十種の神宝はたんなる呪術的な「迷信」として説明されることが多いが、実際は鎮魂・瞑想の教えを示したものなのである。そこには高度なレベルの内容が含まれていることに密教瞑想を経験した真言宗や天台宗の修行者は気付いたのである。そうであるからこれを重要なものと認めたわけである。十種の神宝で示されてる鎮魂・瞑想の「境地」を知るには、これがどのような構成になっているのかが明確にならなければならない。十種の神宝は剣(1)と鏡(2)、魂(6)、それに比礼(3)から成... ...続きを見る

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2019/03/21 14:13
両儀老人百物語 第六十七話(1)
第六十七話 十種の神宝と合気道(1) 合気道と十種の神宝の関係を考える上で鍵となる言葉は「草薙の剣」「島産み国産み」「魂の比礼振り」である。私見によればこれらは十種の神宝の鎮魂法によるものであり、それを武術として展開したのが合気道であるとの認識を植芝盛平は持っていたのではないかと思われる。そして、それは現在にあっては、より優れた方法として形意拳、八卦掌、太極拳のあることを合わせてここで考えてみたいと思っている。 さて十種の神宝は早くには『古事記』や『日本書紀』にそれに関係する記載を見ることが... ...続きを見る

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2019/03/20 14:10
太上十三経注陰符経類解(1)
太上十三経注陰符経類解 『陰符経』は修煉の書である。「陰符」は「陽火」に対する語である。「陰」を言って「陽」を言わないのは、「陽」は「陰」の中に含まれているからである。『易翼』には「一陰一陽これを道という」とあり、「陰」が先で「陽」が後になっている。それは、おそらくは天地万物の理が、「陰」を先とするものであるからであろう。「静」が無ければ「動」の生ずることはない。削るという意を持つ剥卦は、復元するという意を有する復卦の前にある。これも「陰」が先になっているのである。 『陰符経』の一巻には、つ... ...続きを見る

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2019/03/19 14:15
太上十三経注釈 老子 第八十一章〔武術解〕
太上十三経注釈 老子 第八十一章〔武術解〕 一見して実戦的であるような武術は本当はそうではない。一見して実戦的でないように見える武術の方が実戦的であったりするものである。優れた技は容易に語られることはない。それは金銭欲や名誉欲を超えた価値があるからである。低いレベルの百の技は、優れたレベルの一手に敗れてしまう。本当に優れた武術とは当たり前のことをしているだけである。人の目を驚かせるような動きが一つもなくても、磨かれた技は千金の価値がある。そして、そうした技は他人が盗もうとしても、同じだけの稽古... ...続きを見る

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2019/03/18 14:22
太上十三経注釈 老子 第八十一章〔注釈〕
太上十三経注釈 老子 第八十一章〔注釈〕 「信」「善」「知」は全て教えに関することである。この章は全章のまとめとなっている。篤実を論じているのである。つまり一真ということである。篤実のない見せかけだけで世評を得ようとすることを良しとはしていないのである。世間の評価を得ようとだけする者は、誠実さのない者である。篤実に欠ける者である。そうであるから「信言は美ならず。美言は信ならず」とあるのであり、これに続いて述べられているのも、世評ということに尽きている。どうしたら偽って世間の評価を受けるのかを詮... ...続きを見る

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2019/03/17 14:22
太上十三経注釈 老子 第八十一章〔本文〕
太上十三経注釈 老子 第八十一章〔本文〕 〇信言は美ならず。美言は信ならず。 真実を語る言葉は聞き良いものではない。聞き良い言葉は真実を欠いている。人は自分の考えに合う言葉を聞きたがるものである。そうした言葉を耳にして自己の正当性を担保しようとするわけである。現在ではネットまで含めると自分が聞きたい言葉を簡単に見つけることができるようになった。そうした自分と同じ考えの言葉には特に注意しなければならない。 〇善は弁ぜず。弁ずるは善ならず。 「善」なることを実践する人はあえてそれを語ることは... ...続きを見る

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2019/03/16 14:21
両儀老人百物語 第六十六話
第六十六話 形意拳における「束身」と、八卦拳の「縮伸」 形意拳、八卦拳はともに「硬拳」と称される。特に形意拳はその秘訣に「硬打、硬進」を伝えている。「硬」とは攻防において技を変えることがないということである。攻防において技を変えることがないとは、例えば突いていった時に、相手に受られる。そうすると普通は蹴りを放つなどして、新たな展開を行うことで事態の打開を図ろうとするわけなのであるが、形意拳や八卦拳では、初めの突きなら突きをそのままに、変えることなく相手の防御を撃破してしまうのである。 攻防の... ...続きを見る

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2019/03/15 18:48
太上十三経注釈 老子 第八十章〔武術解〕
太上十三経注釈 老子 第八十章〔武術解〕 武術は時間とともに人々の「知恵」が蓄積される。優れた技が増えてくるのである。そうすると、その中の優れた技が「秘伝」となる。中国では破られることのない技を「絶招」という。しかし、本当はそうした技はない。本当の優れた技は早くから教えて多く練習した方が良い。それには技を精選しなければならない。太極拳はひとつの套路しかない。そして楊家から武家、呉家、孫家と各家で工夫が加えられたが、套路の大枠は変えられることがなかった。それほど優れた套路であったということである... ...続きを見る

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2019/03/14 18:48
太上十三経注釈 老子 第八十章〔注釈〕
太上十三経注釈 老子 第八十章〔注釈〕 もし国を大きくて、国民も大勢であるようにしたいと思っている人が居たら、一億人に一人とか、一兆人に一人といった個の才能を持った人が居てもそれが使われることはないのである。そうした特別な才能のある人でなくても十分に対応できるものである。ここで老子が述べているのは、大昔に帰れ、原始の時代に戻れということではない。老子はここで「小」を通して「大」を知ることを教えているのである。つまり「国小さく、民寡(すくな)ければ、什伯の器をして用いざらしめ」とは、特別な才能を... ...続きを見る

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2019/03/13 18:47
太上十三経注釈 老子 第八十章〔本文〕
太上十三経注釈 老子 第八十章〔本文〕 〇国小さく、民寡(すくな)ければ、什伯の器をして用いざらしめ、民をして死を重んじて徒(うれう)るを遠ざからしめざる。 国が小さく、民が少なければ、十人に一人、百人に一人といった才能のある人も用いられることはないし、民をして死を重要なものと考えさせるので、死の憂いを忘れることはない。小さな国や少ない民は「道」を社会に実践した時に生まれる社会である。そうした社会ではエリートというものは存在しない。エリートとは国や社会の基準で「優れている」と認められた人たち... ...続きを見る

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2019/03/12 18:45
両儀老人百物語 第六十五話(下)
第六十五話 形意拳における「三才式」と「老三拳」(下) 形意拳はこうした「老三拳」の時代から李能然によって△体(子午トウ)を中心とした高度な体系として完成へと導かれて行く。今日、形意拳は数ある中国武術の中でも「高級」とされれる部類に属する。また民国初年あたりに行われた「試合」においても、形意拳家はよく上位に入っていた。日本でも広く知られている台湾の武術家の王樹金は形意拳家であるし、易宗門の張峻峰、陳ハン嶺も形意拳をよくしていた。大陸では簡化太極拳(二十四式)を制定した李天驥は形意拳が専門である... ...続きを見る

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2019/03/11 13:36
両儀老人百物語 第六十五話(上)
第六十五話 形意拳における「三才式」と「老三拳」(上) 形意拳では特に「道芸」ということが強調される。かつての武術界、とりわけ形意拳界の様子をよく伝えている李軒仲の『昔日の武術(逝去的武術)』では形意門の中でとりわけ「道芸」ということが強く意志されていたことが記されている。「道芸」とは「道に順じた技芸」ということである。こうした「道芸」では「柔」や「静」が重視され、「武芸」では「剛」や「動」が重んじられる。これはまた「文功」「武功」ということもできよう。「文功」を代表するものとしては、儒教の静... ...続きを見る

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2019/03/10 13:36
太上十三経注釈 老子 第七十九章〔武術解〕
太上十三経注釈 老子 第七十九章〔武術解〕 悪意を持って攻撃をして来る人を、許してもそれが止むことはないであろう。これは取るべき道ではない。人は攻撃を制することのできるだけの知見を持っていなければならない。また、ただ相手を制圧するだけであれば、相手を心腹させることはできない。適切な方法をして相手の心を制する必要がある。その方法となるのは攻撃を止めた相手とは和し、攻撃をして来る相手を制するようなものでなければならない。そして、その方法はこちらの意図によって変えられるのではなく、相手の状態によって... ...続きを見る

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2019/03/09 13:36
太上十三経注釈 老子 第七十九章〔注釈〕
太上十三経注釈 老子 第七十九章〔注釈〕 怨みというものはどこにでもあるものである。統治者の徳が薄ければ民は怨みを抱くようになるが、それは民の責任ではない。これとは反対に「大怨を和す」を解釈するなら、例えよく和することができたとしても、和することのできない者が全く居なくなるわけではない、ということになろう。つまり「余怨」の消えることはないのである。そうであるから全き善というものはないのである。孔子も「自らの責任を重く考えて、他人の責任は軽く考える」と教えている。これがつまり「怨を遠ざける」とい... ...続きを見る

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2019/03/08 13:35
太上十三経注釈 老子 第七十九章〔本文〕
太上十三経注釈 老子 第七十九章〔本文〕 〇大怨を和すれば、必ず余怨有る。いずくんぞ以て善と為すべけんや。 「大怨」とは私怨ではなく無為自然の境地から生まれる「怨み」である。非道なことへの怨みである。こうしたことをあえて無いものとしようとする。無理に和そうとするのは無為によるものではなく、有為によるものである。そうであるから「怨」は消えることはないのである。また、それは「善」とすることのできない行為なのである。 〇これを以て聖人は左契を執りて、人を責めず。 「大怨」にはそれを行う個人と、... ...続きを見る

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2019/03/07 13:35

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