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煉丹修道
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両儀堂公式ブログ 2015年6月20日よりブログ名を変更しました(旧「福徳円満」)

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タイトル 日 時
古道738
太上十三経注釈(833)老子 第五十七章 〔評釈〕 「我静を好めば、民おのずから富む」は統治者が「無為自然」であることの結果である「静」で居れば、民衆も「静」で居られるようになる。余計なことをしないのでより心も生活も豊かになるという教えである。人々が貧しいのはよけいなことをし過ぎるからであるというのが老子の考えである。資本家が搾取し過ぎると労働者は貧しくなってしまう。これも民衆の間に「静」が失われたためである。人はあまりに行わなくても良いことを行っているというのが老子の教えで、重要なことだけ... ...続きを見る

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2018/08/21 18:17
古道737
太上十三経注釈(832)老子 第五十七章 〔評釈〕 以下では「故に聖人云う」として聖人の語った三つの事例をあげる。その第一は「我、無為にして民おのずから化す」である。「無為」であるからこそ、人々は自分に従ってくれるというのである。「無為」とは「無為自然」ということである。「無為自然」とは「為すこと無く、自ずから然る」という意味である。よけいなことをしないで、行うべきことを行うということである。統治する方も、される方も、「自然」であれば、そこに「有為」の介在する余地はないのである。中国では「聖... ...続きを見る

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2018/08/20 18:16
古道736
太上十三経注釈(831)老子 第五十七章 〔評釈〕 「法令ますます彰(あきら)かにして、盗賊あること多し」も実におもしろい教えで、二千年以上も前によく考えたと思うものである。法令の詳細が明らかになると、その抜け道を研究されてしまうということである。そうであるからここでの「盗賊」は罪に問われることはない。もし、法令の詳細が人々に公開されたり、研究されたりすることがなければ、その裏をかくようなことはできないわけである。社会では「常道」というものが人々に実践されなければなければならない。法令になく... ...続きを見る

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2018/08/19 18:16
古道735
太上十三経注釈(830)老子 第五十七章 〔評釈〕 「民に技巧多くして、奇物ますます起こる」は技術が進みすぎると、おかしな方向に行くということである。本来は人々がより便利な生活を手に入れるために技術革新はなされてきたのであるが、原爆のようなものに至ってしまうと本来の意義がおおきく失われてしまう。それが人類の知的好奇心の結果としての「技術」というものの性である。これにより人類全体の生存そのものが危機に瀕することにもなったわけである。武術でもいろいろと技を考えて行くと、使えない技も多く生み出され... ...続きを見る

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2018/08/18 18:16
古道734
太上十三経注釈(829)老子 第五十七章 〔評釈〕 つぎの「民に利器多くして、国家ますます昏(くら)し」は、まさに現代社会を先取りするような教えである。民衆が便利な道具を持つようになると、国家は混乱することになる、というのである。現代のツイッターなどが典型であろう。昔はマスメディアで報じられるような「意見」は一定の基準をクリアしたものであった。しかし今ではツイッターで誰でもどのような「意見」でも多くの人に伝えることができるようになった。そして正しい意見というものが見えなくなってしまっているの... ...続きを見る

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2018/08/17 18:16
古道733
太上十三経注釈(828)老子 第五十七章 〔評釈〕 以下、四つの事例を挙げて「無事(事なき)」の道を考える。「天下に忌諱多くして、民いよいよ貧し」とは、世の中にタブーが多ければ多いほど、人々の心や暮らしは貧しくなる、ということである。この典型的な例が宗教である。宗教ではいろいろな戒律がある。それが多くなればなるほど生活に支障が出てくる。幻想的な「権威」というのも同じである。王権や宗教などは幻想的な根拠のない「権威」に守られている。そしてそれは多くの浪費がなされる。儀式に多額の費用が投じられる... ...続きを見る

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2018/08/16 18:15
古道732
太上十三経注釈(827)老子 第五十七章 〔評釈〕 「吾何を以て其の然るを知るや。これを以てなり」は、自分(老子)はどうして「正を以て国を治め、奇を以て兵を用ひ」が適切であることを分かることができたのかということである。それは以下に述べる事例によるとしている。さて「正」と「奇」であるが、武術の鍛錬を空中を浮いたり、触れないで相手を倒すような「奇」を基準としてはならない。こうしたものは「奇」で始まり、ただの「奇」に終わってしまう。最近、常識にとらわれることなく 鍛錬をしなければならないという... ...続きを見る

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2018/08/15 18:15
古道731
太上十三経注釈(826)老子 第五十七章 〔評釈〕 「正を以て国を治め、奇を以て兵を用ひ」とは、政治にあっては多くの人の共感が得られる方法をもって行われなければならないのであり、軍事は誰も思いつかないような方法で行われるべきであるということである。これは武術の鍛錬も同じで鍛錬は「正」によらなければならないが、それを用いる時には「奇」をもってしなければならない。ここで老子の言う「奇」なのであるが、これは軍事を用いないという意味での「奇」である。つまり軍事は攻撃するためのものである。これは「正」... ...続きを見る

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2018/08/14 18:14
古道730
太上十三経注釈(825)老子 第五十七章 〔本文〕 正を以て国を治め、奇を以て兵を用ひ、事なきを以て天下を取る。吾何を以て其の然るを知るや。これを以てなり。天下に忌諱多くして、民いよいよ貧し。民に利器多くして、国家ますます昏(くら)し。民に技巧多くして、奇物ますます起こる。法令ますます彰(あきら)かにして、盗賊あること多し。故に聖人云う。我、無為にして民おのずから化す。我静を好めば、民おのずから富む。我、欲無くして、民おのずから樸(ぼく)なり、と。 〔「正」とはただ無為にして天下を治めると... ...続きを見る

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2018/08/13 18:14
両儀老人百物語 第二十二話
合気の間合いと啐啄の機(3) 合気の間合いも「同時」ではない。相手の動きにこちらが応じるのが、武術のやりとりである。しかし、一部に合気とは「同時」の動きであるとの解釈がある。それはこのようにして起こるという。相手の動き(攻撃)をこちらは受けるが、その次には互いの動きが同調するというのである。しかし、これは実際にはあり得ない。これが生じるのは形稽古の上だけである。形稽古に慣れると「次の動き」が分かっているので、「同時」の動きになるのである。しかし、これは形稽古で最も注意しなけばなら... ...続きを見る

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2018/08/12 11:10
両儀老人百物語 第二十一話
合気の間合いと啐啄の機(2) しかし、これを「同時」という言い方にひかれて本当に「同時」に「啐」と「啄」とが起きることと考える人も居るようである。しかし、完全なる「同時」はあり得ないことである。互いの動きではどちらかが主導しなければ武術の攻防は成り立たない。太極拳には「相手が動かなければ、こちらは動かない。相手が動けばこちらは先に動く」という拳訣がある。ここにおいても、主導するのは自分である。自分が主導するに、受け入れない方法をとるのが一般的な武術である。しかし、合... ...続きを見る

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2018/08/11 11:10
両儀老人百物語 第二十話
合気の間合いと啐啄の機(1) 時に合気の間合いを啐啄の機をもって語られることがある。啐啄の機とは「啐啄同時」という語で禅宗でよく説かれていることである。これは卵の中のひな鳥が生まれようとして卵の内側から殻を破ろうと突く(啐)と、親鳥も外から殻を突く(啄)ことをいうものである。禅宗では相手の行為に応じるのに「思量」が入らないことを良しとする。自ずから応じる動きが出るのが好ましいと教えるのである。もし、相手の行為に応じるのに「思... ...続きを見る

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2018/08/10 11:10
両儀老人百物語 第十八話
「純武術」の発見 その14 心理戦で相手を制してしまうには、戦う心を持っては充分ではないと荘子は教えている。「なにをするか分からない」という境地に入れば、相手は漠とした恐怖を感じで逃げてしまうというのである。これは狂気の境地に入るということでもある。武術の試合をしようというのにマシンガンを持ってくるかもしないような人物とはとても試合はできない。このようにステージを変えてしまうのは道家の共通した考え方である。試合なら試合という枠組みにとらわれているから限界がある、答えが得られないとするのである。... ...続きを見る

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2018/08/09 11:34
両儀老人百物語 第十七話
「純武術」の発見 その13 禅宗においては、仏教という枠組みを越えてこそ、本来の「仏教」を悟ることができると考えるのであるが、同様なことは武術においても見られる。「武術」という枠組みを越えてこそ本当の「武術」を体得することができるというのである。これでよく持ち出されるのが『荘子』の木鶏である。木鶏のようとされる境地に入った鶏は戦うことなくして、相手が逃げてしまったとされる。しかし、ここに戦いがないわけではない。心理戦で相手を制してしまうのである。 ...続きを見る

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2018/08/08 11:34
両儀老人百物語 第十六話
「純武術」の発見 その12 一方、本来の仏教ではあくまで「内的な言語化」を捨てることはしない。これを無くしてしまうと「仏教」という枠組みが維持できないからである。しかし、禅宗では仏教を最高の真理とするので、誰でも純粋体験を経れば釈迦と同じ教(外的言語化)に到達すると考えたのであった。一人一人が仏教を創始すれば良いわけであるが、なかなかそうはいかない。釈迦の悟りは唯一無比なもので、その境地には一人しか到達できないとされていたからである。 ...続きを見る

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2018/08/07 11:34
両儀老人百物語 第十五話
「純武術」の発見 その11 釈迦は坐禅により純粋感覚を開くことができた。そして純粋体験をした。そして、それは内的な言語化がなされて釈迦は悟りを得たと思った。しかし、釈迦はこの段階で自分の悟りは他人がとても理解できるものではない、と考えたりもしている。つまり、自分の悟り(内的言語化)を他人に伝えようと外的な言語化をするのはあまりに困難であると思ったのである。禅宗では、こうした二度の言語化により、釈迦の「教」はすでに純粋体験とは違ったものになっていたと考えたのであった。 ...続きを見る

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2018/08/06 11:33
両儀老人百物語 第十四話
「純武術」の発見 その10 純粋感覚による純粋体験は、つぎに内的な言語化がなされ、外的な言語化により他人へと伝えられる。もし、純粋感覚を目覚めさせて純粋体験が得られたならば、たとえ膨大な外的な言語化がなされていたとしても、その全てを学習する以上の「真実」を知ることができると考えるのが禅宗である。 ...続きを見る

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2018/08/05 11:24
両儀老人百物語 第十三話
「純武術」の発見 その9 つまり人はたとえ「純粋本能」にかえったとしても、攻撃しようとする意識を見出すことはできない可能性が高いのである。戦争をする軍隊には「規律」がなければならない。そこでは個人が自由に考えたり、行動したりすることは許されない。そうしなければ攻撃しようとする意志が失われしまいかねないからである。また軍隊などでは自殺が一般社会に比べて3倍ほどもあるという。自殺にいたらないまでも心身の不調にいたるケースはかなり多いのではなかろうか。王向斉もいくつかの攻撃の手法を導入しなければ、適... ...続きを見る

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2018/08/04 19:46
両儀老人百物語 第十二話
「純粋武術」の発見 その8 「純粋武術」は「純粋感覚」による。「純粋感覚」を呼び戻せば、もっとも阻害されることのない動きが導き出せると考えるのである。それは「純粋本能」を呼び覚ますことでもあった。しかし、問題は人の「純粋本能」の中に攻撃的な動きがあるかということである。人はともすれば攻撃しようとする意志が薄れてしまう。「臥薪嘗胆」の故事もあるように常に苦痛を与えておかないと、ついつい攻撃しようとする意志が希薄になるのである。こうしてみると攻撃しようという意志は後天的な思考によるものではなかろう... ...続きを見る

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2018/08/03 19:46
両儀老人百物語 第十一話
第十一話 ヒマラヤ山麓の僧院 「僧院と言うからには、生きるということを、少なくとも世俗の人たちよりも真面目に考えている人々が住んでいると見ていいだろう。いかなる戒律を己に課しているか知らないが、不自然であろうと、ゆがんでいようと、自分がよしとした生き方を選び、実行している人々が住んでいることだけは確かである」(『星と祭』上) ...続きを見る

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2018/08/02 19:25

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