テーマ:周易参同契発揮

綿綿不断の言霊〈73〉

感があれば、応があるものである。これは自然の理である。 すべてのものは、関係性の中にある。これが、神仙道の考え方の基本である。 どのような存在も、それが独立して存することはできない。 あらゆるものが、互いに影響を与えあっているのである。 「むすび」の武術の套路も、前の動きが、次の動きを導いている。一個の原理の必然…
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調和と自然〈72〉

大いなる変容の薬である大丹を得るには、ただひとつの方法しかない。それは元和の気を味わうことである。元和の気を味わうことで、変容が促される。ただ、この道をおいて、ほかに大丹を得ることはできない。. 「むすび」の武術で重要なことは、究極的な調和を知ることである。 調和は、「相手」に合わせていたのでは、いつまでたっても、「合う」こ…
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危機感をもった稽古〈71〉

心身の変容を促す丹を得るのに、特別な方法があるわけではない。ただ虚心で、静を味わっていれば、自然に気と神とがひとつになる。気と神が、ひとつになれば、その働きは滞りのないものとなる。こうした状態が長く続けば、神の働きは安定し、自然に呼吸が正される。呼吸が正されれば、気の働きが安定する。気の働きが安定すれば、丹は自ずから成る。 「むす…
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むすびと鎮魂〈70〉

心が定まれば、神の働きは落ち着いたものとなり、神と気はひとつになる。こうなれば上、中、下の丹田は、むすばれて、均衡をえる。また全身の脈も開かれて、滞りなく気血が巡るようになる。 『周易参同契発揮』では、心身の健康の根本にあるのは、「心」であるとしている。 しかし、「心」の安定が、心身の健康の根本であるといっても、心の安定だけ…
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綿綿不断で「自分」を越える〈69〉

『上清玉真胎息経』には「神を車として、気を馬とするならば、終日、馬を御して、車を操ること怠りがないようであらねばならない」とある。終日、神や気を操り、御するには、柔らかで、途切れることないよう心がける必要がある。こうした状態を続けていれば、自然に神や気は、柔らかく、途切れることなく、働くようになるものである。 神(心の働き)や気(…
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「虚」を知る〈68〉

『文子 通玄真経』には神仙道の瞑想の境地を「暗黒の世界を見る。暗黒の世界の音なき音を聴く。暗黒の世界の光を見る。音なき世界の中に一点の輝きを見る。」としている。こうした境地は言語を通して、伝えられるものではない。 神仙道の瞑想は「玄」の世界に入ることである。「玄」とは「おおいなる闇の世界」のことに他ならない。 その中にあっ…
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天地の間合い、人の間合い〈67〉

『霊源大道歌』には「混沌と一体となるとは、森羅万象の究極である一を知ることであり、またその一を忘れることである」とある。これは、神仙道の瞑想でいう「虚無」が、心の働きを、まったく忘れてしまうということではないのと同じである。また、「虚無」は、心の働きを無くすということでもない。心、最高に働いているが、それにとらわれないということなのであ…
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玄牝と回光返照と〈66〉

すべては老子のいう「玄牝(不死の谷神と同じ)」にあるのである。つまり、「玄牝」とは、丹を得るための道なのである。男が「玄牝」を得れば、心も体も調和のとれたものとなる。女もこれを得れば、心身の煩わしさから解放される。およそ修行をするならば、「玄牝」の道を修するのを第一とすべきである。 「玄牝」の「玄」は、闇のイメージを表す語である。…
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淡々と修する〈65〉

道は目の前にある。しかし、道を修しようとする者は、このことが分かっていない。ただ、天機を得れば道は、遠くにはないことが分かるであろう。しかし、天機のあることを知らない者は、近くに道があっても、その存在を知ることができない。まったく見えないからである。 「機」が熟する、ということはある。どうしても動かないと思ったことでも、ある時がく…
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光と変容〈64〉

真珠は、あこや貝の中に入れられたドブ貝の一片が、天地を照らす日月の光の精を吸い取ってできるのである。人の中にも日月はある。これを輝かし、内面を照らすことで、自然に人体の中に「真珠」がむすばれるのである。これが本当の丹である。 古代の人は、真珠は太陽や月の光の精であると考えていた。月は、それ自体が光りを発することはないが、太陽の光を…
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天地の真気〈63〉

天隠子は「一年のうちに、何回かは天地の真気と一体となれる時がある。この時は、自分の体が浄められたように感じられる。また、すべてのものとの調和が保たれているようにも感じられる。こうした経験を何度も繰り返すことで、自然に神仙の道に入ることができるようになる。」と言っている。 「玄関」は、日本ではただ家の入り口の意に過ぎないが、神仙道で…
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生成の「機」〈62〉

すべては天機と人機の合一にある。もし、よく虚心で、心を鎮める(凝神)ことができれば、天地の機は自ずから合い、生成の機を我が手中にすることができる。 神仙道では、生成において、最も重要なことは、「機」にあると教える。 適切な時に、適切なものが、生み出されることが重要とするわけである。 適切な時とは、環境の整った状態という…
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経験で「実証」されたもの〈61〉

天地は陰陽が交わることによって、すべてのものを生んでいる。丹法においても、陰陽が交わることで、「薬」を得る。いまだかつて、陰陽の交わることなく、ものの生じることはなかった。 神仙道では、万物は例外なく陰陽の交わりによって生まれるとする。 そうであるから、キリスト教のように「処女」マリアから子供が生まれることは絶対にない、と考…
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「無為」を取り戻す〈60〉

先天とは、無為の働きのことである。後天とは、有為の働きのことである。これらを一律に語ることはできない。 「無為」であるとは、意図的なことをしなくても、自然に一定の働きのあることをいうものである。 特に意図しなくても、朝は来るし、夜にもなる。 「普通の食生活」を営んでいれば、特に意図しなくても、子供は成長する。これが、「…
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道を開く〈59〉

鬼谷子は、十二年もの学びの期間を終えて、師である子華子のもとを去ろうとしていた。この時に子華子が戒めて言った。「君の学んだことは実に多い。しかし、それは全て自分が選んで学んだことではないのかね」と。 鬼谷子は、縦横家とされる部類の人で、弁舌によって、人を動かすことに巧みであったとされる。ただ、実在した人物なのかどうかは、判然としな…
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和顔愛語〈58〉

『復命篇』には「一つの物も、一つとして扱われないことがある。物はひとつでも、呼び方が分かれるのである」とある。「人」は本来は、ひとつのものであるが、これが心と体のように、二つに分かれるかの如く言われることがある。 老子も、「名」とは、実態そのままを表すものではない、としている。 「名」とは、あくまで実態にまつわるイメージを言…
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心身の錬金術〈57〉

陰と陽とが交わるときには、必ず互いが傷つけあうものである。これが自然の道である。『周易参同契』を著された魏伯陽公は、このことを日食、月食の例えをもって語られて、丹道の妙を示されている。 陰と陽が、ひとつになる時、陰は陰の性質を傷つけられ、陽は陽の性質を傷つけられる。 結婚をすれば、独身の頃に比べて、互いの自由が制限されるのと…
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境地を成熟させる〈56〉

心身の状態を子細に感じて、修行の調整をすることが大切である。あまりにハードであるのもよろしくない。あまりに軽くてもよくない。適度な修行を重ねて、徐々に境地を深めて行く。子細な心身の観察がないまま高度な稽古をしても、深い境地に至ることはない。 心身の状態は、一日として同じであることはない。 練習に際しては、ある時には、やや多め…
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観心と吸神〈55〉

肉体のレベルで基礎を作る習練と、霊体のレベルで「変容の薬」を得るための習練は同じではない。これには「観心」と「吸神」の働きが、それぞれにあり、共に心身の調整を行うものである。 『周易参同契発揮』では、肉体レベルの習練に「観心」を、霊体のレベルの習練に「吸神」をあげている。 「観心」とは、静かな気持ちで自分の心を見つめることで…
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全体のバランスを考える〈54〉

「変容の薬(金丹大薬)」のタネは、上丹田にある。「変容の薬」が生じるのは、下丹田である。上丹田はナベ(鼎)であり、下丹田は炉である。よく炉の火を燃やさなければ、「変容の薬」を得ることはできない。 「丹田」とは、丹を得るための田のことである。「上丹田」が象徴しているのは、意識である。「下丹田」とは、肉体の働きのことである。 こ…
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「文」と「武」と〈53〉

始めは「文」より入り、最後には「武」を修して終わる。これが、一連の修行の流れである。 「文」とは霊的な修行のことである。 「武」とは物的な修行のことである。 神仙道の修行は、先ずは「至静」の境地をつかむことから始まる。「至静」を得るとは、広く言えば、ひとつの至高体験でもある。 特殊な意識状態を経験したなら、それが…
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淡々と〈52〉

あまりに過度な集中も、心身を活性化するには良くない。あまりに散漫であると、心身のエネルギーを高めることができない。柔らかく(綿綿)心身を使うことを続けていれば、自然と意識は乱れることなく、呼吸も安定したものとなっていく。 心身をひとつのシステムとして考えた場合に、そのシステムが完全に閉じてしまえば、外から何も取り入れることができな…
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大きな変化、小さな変化〈51〉

「変化」は、きまったところで起こるのではない。そうであるからどこからでも、変化は生ずるのである。 暑い夏の日々が続いていても、ふと夜に風の涼しさを感じて、秋の訪れを思うことがあるであろう。おおくの場合、自然の変化は、分からない内に起こっているものである。 小さな変化が、積み重なって大きな変化となる。小さな変化は分かり難い。そ…
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先入観を棄てる〈50〉

神仙の道は、「文」をもって先とする。「武」をもって後とする。そうでなければ深い境地に達することはできない。 「文」とは、精神的な部分をいう。 「武」とは、肉体的な部分である。 神仙の道である「むすび」の武術では、先ずは精神的な部分を整える。「至静」の一端を感得するのである。次いで肉体の鍛錬に入る。 もちろん肉体の…
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根本原理を知る〈49〉

昔より今にいたるまで、神仙の道を説いた本は実に多い。これは先人たちが、実に丁寧に道を示してくれたものに他ならない。しかし、その根本をいうならば、一陰一陽につきてしまうのである。 「最強の武術はなにか?」 武術を修業している人で、こうした疑問を持たなかった人はないのではなかろうか。 たしかにいろいろな武術があり、それぞれに多彩…
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字訣、口訣、心訣〈48〉

ひとたび口訣を得れば、システムとしての統一した全貌を俯瞰することができて、疑いの全ては晴れてしまう。 ここにいう「口訣」とは、最高のレベルの教えのことを言っているのであるが、最高のレベルの教えとは、それを知ることで、システムの全体を統一的に見ることのできる視点のことである。 ちなみに口訣は、口頭で教えられる秘訣一般のことであ…
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奥義にいたる道〈47〉

本当の道とは、簡単であり、単純なシステムなのである。道の奥義の味わいとは、淡く、味のないようなものとなる。 世にいう「ジャンク・フード」とは、見かけや口当たりの快さといったことを優先した食品である。先日、齢50をこえて初めて世界的に有名なハンバーガー・ショップで、食事をしたが、まさにそうした感じであった。 本当の味わいを知る…
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聖なる結婚〈46〉

天地が真の交わりを持つ時、聖なる父と、聖なる母の気がひとつとなり、真の生成が生まれる。我々の心身は、ただに父母の気の交わりによって生まれてきたものである。そうであるから、我々の気を、聖なる父母の気へと変容しなければならない。 これは西洋の錬金術でいうところの「聖なる結婚」である。 本当の生成は、物的なレベルだけではなく、霊的…
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本当の自分へ・返本還源〈45〉

本当の自分を見出すには、「同類」の「むすび」を得なければならない。「同類」の「むすび」を得たならば、自然に労することもなく、本来の自分へと向かう変化が生まれるものである。 「同類」とは、二つが組になって「一陰一陽」となるものである。しかるに多くの修業者は、異なる性質のものをむすびつけようとする。こうした努力は徒労に終わることが、歴…
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燻蒸と滋味〈44〉

丹が得られたならば、昼夜これを養わなければならない。間断なく丹を養うことで、四肢は真気により燻蒸される。顔色はさわやかで、白髪も黒髪となる。抜けた歯も再び生えてくる。 「丹」が得られるとは、稽古を楽しく感じられるようになった時である。稽古の滋味を知るまでは、無理をしないで、少しづつ稽古をしていけば良い。 たとえ数分でも、朝夕…
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