テーマ:内丹国学

古道133

神仙道と仏道(5) 釈迦の時代の仏教、それに神仙道の坐忘、これらの根本となるのは「観察」をすることであった。坐忘は静坐とも言われる。ただ静かに坐って、身体の状態、心の状態などを、何事にもとらわれないで見ている。ただそれだけなのである。身体や心、そして諸々の事象をも、ただ内的な眼で見るだけなのである。 そうして得られた集中状態の秘訣に…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

古道132

神仙道と仏道(4) かつての神仙道には儒教や仏教と融合するくらいしかなかったが、今日のようにいろいろな思想が知られるようになると、そうしたものとの一致を感じる人もいるかもしれない。近現代に起こった新興宗教ではイスラームやキリスト教えとの合一を唱える派もある。儒教、仏教、道教ときキリスト教、イスラーム教の五教合一を説くのである。 台湾…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

古道131

神仙道と仏道(3) 釈迦が亡くなる時の旅の様子を示した経に「大パリニッバーナ経」がある。それには次のような言葉が残されている。 「修行者は、身体について身体を観察し、熱心によく気をつけて、この世における欲や憂いを除去していきなさい」(中村元『ブッダ最後の旅』) これは以下、「心」について、「諸々の事象」についてと続くが、すべてよく…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

古道130

神仙道と仏道(2) 私見によれば、仏教の中でも特に釈迦の頃の仏教と神仙道は近いものがあるように思われる。いわゆる原始仏教(根本仏教)である。禅はむしろ神仙道の影響を受けて生まれたものである。神仙道の仏教よりの派とほぼ変わりがない。インドなどの仏教からすれば、ほぼ神仙道といわれるかもしれない。禅では経典に書かれている仏教教義を一旦、否定…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

古道129

神仙道と仏道(1) 神仙道では、よく「仙仏合宗」が言われる。これは神仙道と仏道とが根本において同じであるとする考え方である。神仙道は本来が健康法から生まれたものである。楽しく、長生きをすることを第一の目的としている。そのためには、心も体も快適であらねばならない。そのヒントを得るための教えとして、神仙道は老子や荘子の道家の思想や仏教、儒…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

古道090

五大明王と五大力(4) 日本各地には清明神社がひじょうに多くある。これは安倍晴明に由来するものと説明されることもあるが、実際はそうではなく「せいめい」なる語が、天気の晴れに通じるために農業に従事する人たちの間で、天気の神様として信仰されていたのであった。同じことは熊本で近世後期あたりから広まる加藤清正信仰にも通じるものがあろう。加藤清…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

古道089

五大明王と五大力(3) 五大明王を通じて「力」を得ようとする信仰が修験道で深められた。修験道は自然の中で行われる。そうした環境で、意識の根源にまで触れる修行をしていると、そこには自ずから神道的なものが出てきてしまうわけである。神仙道では、こうした根源のレベルの意識に触れることを、祖気を開く、といっている。先天の気と後天の気が、ひとつに…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

古道088

五大明王と五大力(2) 興味深いことに住吉大社にも、五大力さん、の信仰がある。 住吉大社はおもしろいところで、本来の住吉信仰のほかに、五大力さんや初辰さんなどの信仰を見ることができるのである。五大力は、五所御前なるところで、五、大、力と記された石を拾い集めてお守りとするもので、ここでは五大明王とは直接関係なく信仰されているようである…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

古道087

五大明王と五大力(1) 五大明王とは、不動明王を中心とする五明王のグループをいうものである。降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉などの明王が、不動明王以外にいる。五大明王への信仰は古くは五壇法などに見られるように不動明王を中心として、四方を鎮める、というものであった。そのためそれぞれの明王の違いはあまり強調されることがなかったのである。 …
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

古道086

アイコンとしての弁財天(4) また日本で特に信仰を集めている不動明王は、神道でいうなら荒魂の象徴である。不動明王も宇賀神弁財天と同様に、クンダリニーの覚醒を象徴している。不動明王の持つ剣は、倶利伽羅剣であり、俱利伽羅明王という蛇体の神である。これが剣に絡みついているのである。つまり上昇する蛇のエネルギーを現しているわけで…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

古道085

アイコンとしての弁財天(3) 宇賀神弁財天といった優れたアイコンがどうして日本で生み出されたのか、不思議でもあるが、このようなあるべき心身の状態は、本来だれものが有しているのであるから、これをアイコンとして見出すことは、ある意味でまったく自然なことであり、不思議ではないとも言えよう。 ではなぜ女神の上に翁である宇賀神が乗っているのか…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

古道084

アイコンとしての弁財天(2) また、宇賀神弁財天で宇賀神の居る場所も重要で、蛇体の老人は女神の頭の上にいるのである。これはサハスラーラ・チャクラの位置である。サハスラーラ・チャクラは、ほかのチャクラとは、少しく違っており、肉体より霊体による部分が大きい。そのため頭ではなく、頭の上にあるわけなのである。宇賀神が示しているのは、神仙道でい…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

古道083

アイコンとしての弁財天(1) 弁財(才)天は、もとはインドの神でサラスバティーといった。それが仏教に取り入れられて日本に入って来たのである。日本では宇賀神を頭に頂く形になるが、古くは楽器を引く女神であった。江島神社には、琵琶を引く女神の弁財天と、宇賀神を頂く弁財天の像が祀られている。宇賀神は、稲、米の神とされ、稲荷神と同一とされる。ま…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

古道071

太上十三経注釈(281)老子 第二十一章 注釈では「信を得る初めは、まさに精にある」とある。「信(まこと)」を得るには、「精」を開く必要があるというわけである。「精」は既に見たように腎の中にある一陽である。腎の一陽を開くには、心の一陰を鎮めなければならない。心の一陰を鎮めるには、「まこと」の気持ちがなければならない。 さらに注釈では…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

古道069

太上十三経注釈(279)老子 第二十一章 下丹田を開くとは「坎精を露にする」ことでもある。坎卦は腎を象徴する。これを開くには足腰を鍛える必要がある。わたしが立って行う瞑想を提唱するのは、こうした見地によるものでもある。坎精は、坎卦(陰陽陰)の中の一陽である。これは「命」とされる。離=心の一陰である「性」、坎=腎の一陽である「精」「命」…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

古道068

太上十三経注釈(278)老子 第二十一章 注釈では「精とは性の火なのである。下丹田が開くことで、この火は感じて生まれる」とある。既に見て来たように「精」は、「性」と「命」がひとつになったところで、生み出されるものである。そうであるなら「精」の根源である「性」はどうしたら開くことができるのか。注釈では下丹田を開けば良いと教えている。 …
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

古道067

太上十三経注釈(277)老子 第二十一章 男女が交わり、子供が生まれる一連の状況を「道法を象徴するもの」と注釈では述べている。そして、それは「初めに『象あり』とされていて、次に『物あり』とあり、そして『精あり』となっている」のと同じであるという。既に前回でも触れたが、「象」は「性」であり「一」でもある。「命」は「性」とひとつになるので…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

古道066

太上十三経注釈(276)老子 第二十一章 注釈には「恍や惚は性から生まれた物なのである。男が女に与える精は、一なる物である。これはまた二なるものと関係をしている」とある。ここでは正しい受胎は、恍惚感をもって行われる性行為がなければならないとする。恍惚感がなければ、男性の方に「一」なるもの、つまり「性(心の働きの根源となるもの)」がうま…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

古道056

太上十三経注釈(266)老子 第二十一章 ここでは「孔徳」について説明をしている。孔徳の「孔」には広い、という意味がある。解説ではこれを「空」や「大」としている。この大いなる徳の器の中に入っているものについての教えが、ここでは記されてるわけなのである。そして、そこに入っているのは「道」である、とする。つまり「徳」と「道」とは、ひとつで…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

古道055

太上十三経注釈(265)老子 第二十一章 本文 孔徳の容はただ道たり。これ従うなり。道はこれ物たり。ただ恍、ただ惚にして、惚、恍たり。その中に象あり。恍、惚たり。その中に物あり。窈、冥たり。その中に精あり。その精は、はなはだ真たりて、その中に信あり。古より今に及ぶも、その名をはなれず。もって衆甫をけみす。吾、何をもって衆甫のしかるを…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

古道015

太上十三経注釈(225)老子 第十七章 老子は道が完全に行われない状態であれば、それに次ぐものとして「親しみ、愛し、奨めたり、誉めたり」することがベースとなるようにすることを教えている。仏教でいうところの慈悲であり、菩薩道である。仏教の歴史を見ても、中道を説く釈迦の時代は、いうなら「道」の実践の時代であった。しかし、それだけではうまく…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

古道011

太上十三経注釈(221)老子 第十七章 人は能力にとらわれることで、他人より上に出ようとする心が強くなるものである。そして、それが苦しみとなるわけである。老子はそうした競争の世界に身を置くことは好ましくない、と教えている。たとえある種の能力があっても、それにとらわれないようにすべきなのである。淡々と自分の道を行けば良いのであり、他…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

古道010

太上十三経注釈(220)老子 第十七章 「太上」とは老子のことであるし、また「道」を体得した人のことでもあるとする。「太上」とは大いなる「上」のことであり、一般の人々はこれに対して「下」となる。ただ、単に「上」としなかったのは、ここで言う「上」が、上下を超えたところにある「上」であるからである。厳密な意味では上と下というとこrの「…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more