道竅談 李涵虚(96)第十一章 五関を煉る

道竅談 李涵虚(96)第十一章 五関を煉る
そして最後の「煉神」では套路を超えて自在となることが可能となる。「還虚」というとひじょうに特殊なことのように感じられるかもしれないが、どのような武術でも形を覚える段階と試合などの自由に技を出し合う段階の練習とがある。本来は「試合」のレベルは自由な動きを導き出すためにあるのであるが、組織を守るために形の動きでなければ試合に勝つことができないようになっている場合が多い。これでは「試合」をする意味がないし、形に習熟する意味もなくなってしまう。そうなると「試合」に使える動きだけを練習した方が勝てるようになるからである。形の稽古はルールのある競技試合を前提としたのではその範囲を逸脱する部分が多すぎる。一定のルールや場所でないところで如何に攻防をするかを教えるものとして套路がある。また「試合」はあくまで「試み合う」程度のものでなければならない。

道竅談 李涵虚(95)第十一章 五関を煉る

道竅談 李涵虚(95)第十一章 五関を煉る
西派では「煉神」において「還虚」に至るまでに三つの段階があるとするわけであるが、これは武術の修行階梯を考える上ではひじょうに参考になる部分がある。これを「煉精」から見ていくと、「煉精」は肉体のレベルで第一の変容を迎える時となる。この変容は套路を覚えることでなされる。今まで行ったこともないような動きを新たにすることで心身の変容が促されるのである。次の「煉気」は気持ちが鎮まることである。套路に習熟することで気持ちが自然に鎮まるようになる。よく中国武術では「真伝」を得ることの重要性が説かれるが、それは心身が一定の集中状態に導かれるような套路でなければ心身の変容を促すことができないからである。

道竅談 李涵虚(94)第十一章 五関を煉る

道竅談 李涵虚(94)第十一章 五関を煉る
〈要点〉
一般的には煉精、煉気、煉神の段階があるとされるが西派では煉神はさらに「煉神了性」「煉神了命」「煉神還虚」に分かれるとする。つまり「煉神」の段階が「了性」「了命」「還虚」に分かれていると説くわけである。一般的には煉精(化気)、煉気(化神)、煉神(還虚)となるとするので、最後が「還虚」であることには変わりはない。これに加えて還虚合道や煉己を設けることもある。西派でも「還虚」の後にもう一段階(一層)があるとして「合道」のことに触れている。西派の修行の階梯は「煉神」の段階を三つに分けることで、内的な心身の変化を、それらがひと続きのものであり、またある種の変化の過程でもあることを示そうとしている。それは意図的なことを行うのではなく、ただ今の境地を味わい、楽しむことで自然に移り変わるものである。

道竅談 李涵虚(93)第十章 精、気、神を養う

道竅談 李涵虚(93)第十章 精、気、神を養う
すばらしい陶仙人(陶弘景)が言われたことに「内を知って外を知らないのでは、関竅を通すことはできない。外を収めて、内を収めないのでは根源を固めることはできない」と。これをよく体得することができれば、精、気、神が互いに相関係して養い合っていることの妙を知ることができるであろう。
〈補注〉後天と先天とは一つのものでこれを切り離すことはできない。「逆」の修行は後天と先天を分けて、後天から先天に入るとするが、「順」の修行は先天、後天がひとつになっている天地自然の状態そのままにして後天と先天のバランスを保とうとする。瞑想の修行は「逆」で、武術などは「順」の修行ということができようか。「逆」の修行はそれぞれの段階が明確であるが、「順」では必ずしもそうではない。長く修行をするには修行における楽しみを見出すまでが重要であるが、それまで継続できる動機を得るのに瞑想のような方法であれば「逆」が適切であるし、武術のような覚えることの多いものは「順」の方が良いであろう。修行の方法は自分自身の心身の状態に応じて選ぶのが良い。

道竅談 李涵虚(92)第十章 精、気、神を養う

道竅談 李涵虚(92)第十章 精、気、神を養う
液とはつまり気と化するということでもある。その後に河車を転ずる。さらに気が精を生じ、精が神を生じる理がある。これは「白雲上朝」と称する。甘露は下って、坎陽を導いて、離陰を滅する。
〈補注〉「逆」修における河車は精を煉って気と化し、さらに気を煉って神と化するのであるが、「順」修では河車を巡らせる前に既に下丹田では神と気、精が融合した状態となっている。そうであるから自然に河車は巡ることになる。太極拳などの武術の修行でも拳の修練によって神、気、精が融合していれば混元トウや瞑想をした時に河車を自ずから巡らせることができる。こうした状態で河車を巡らせると神や気、精が活性化される。「白雲上朝」とは白雲の上に昇るということで仙界(先天の世界)に入ることを意味している。「甘露」が下るとは先天の世界が開かれるということである。そうなると「腎=坎(陰陽陰)の一陽が開かれ、「心=離(陽陰陽)」の一陰が滅せられる。つまり「坎」は純陰となるのであり「離」は純陽となる。「乾坤」は天地を示すものであるから、ここに人体において天地(小宇宙)が完成して大宇宙たる天地と一体となる。

道竅談 李涵虚(91)第十章 精、気、神を養う

道竅談 李涵虚(91)第十章 精、気、神を養う
子気は心気である。内精は心精である。後天の培養の学は、外より内に入る。そうであるから先に外薬を修するのである。そうして内薬に至ることになる。また神を精と化し、精を気と化するの理がある。それは「絳宮化液」とされるもので、流れて元海に帰する。
〈補注〉既に触れたように「子気」は先天に属するものであり、また「内精」も同様である。そうであるから「内精」を「心精」とも称する。「神を精と化し、精を気と化する」とは、神と気、精が一体となるということである。そしてそれは元海(下丹田)に納まるとする。「絳宮」は中丹田で、ここで神と精が集まり、気と融合して「液化」して元海(下丹田)に納まることとする。これを「五気朝元」と称することもある。全身の気(この場合の「気」には神、気、精のすべてを含む)がひとつにまとまるということである。

道竅談 李涵虚(90)第十章 精、気、神を養う

道竅談 李涵虚(90)第十章 精、気、神を養う
おおよそ神と気が交わると自然に天精が生じるものである。この精は「天一の水」である。坎にあっては壬となる。これは母気ともいう。また外精とも称する。修行者は母気をして子気を養う。外精をして内精を補うのである。これは同類を求めての功(同類施功)である。
〈補注〉ここでは後天の「順」を修する道について述べている。そして神と気が交わると「天精」が生じるとする。「天精」は「天一の水」であり「壬(みずのえ・水の兄)」でもある。つまり坎(陰陽陰)の一陽のことをいうわけである(「一」は陽を現す)。またこれは「外精」であり「母気」でもあるとする。そして、これは「子気・内精」を養うという。「内精」とは先天の精(元精)である。ここで先天に入るのであるから、こうなると「順」も「逆」も同じといえよう。西派での「順」は儒教の静坐の修行法に近く、「逆」は神仙道で一般的なようである。

道竅談 李涵虚(89)第十章 精、気、神を養う

道竅談 李涵虚(89)第十章 精、気、神を養う
つまりこれは逆の道なのである。「逆」の道は精から始め、「順」の道は神から始める。これらにはそれぞれ求められるべき妙があり、互いに相反するものではない。「逆」を修して元精を開くには、先ずは(意識が乱れないようにする)凝神を行わなければならない。凝神をすれば(気が集まる)聚気となる。聚気となれば精が生じる。
〈補注〉元精とは先天の精のことである。「逆」修の道は煉精化気から始まり煉気化神となり煉神還虚と進むが、この段階で「虚」とあるのが先天に入るということである。そのため元精と「虚」とは同じ先天を意味することになる。そうであるから煉神化元精ということもできよう。そして煉元精化元気、煉元気化元神なる階梯を想定することも不可能ではないようにも思えるが、先天に属するこれらはすべて「虚」のものであるから、これを煉ったり、化したり、段階を設けたりすることはできないわけで「元精」に還った時点で「元気」「元神」も等しく開くことになる。また「順」を修する道では、後天と先天の区別をあまり重視することがない。

道竅談 李涵虚(88)第十章 精、気、神を養う

道竅談 李涵虚(88)第十章 精、気、神を養う
これは故意にできるものではない。「相手」に任せなけばならない。「相手」に任せることを「逆」といっているのである。精は気と化する。これは精が陰キョウ〈足へんに喬〉(会陰)にある時に逆に紫府(上丹田)に入れて、これを煉るのである。こうすれば精は化して気となる。気を神と化するには、気が陽炉(下丹田)にある時に逆に黄庭(中丹田)に入れて煉る。こうすれば気は化して神となる。
〈補注〉西派では「逆」の修行とは「相手」に任せることであるとする。これは意図的に気を巡らせるようなことはしないで、ただ上丹田や中丹田に気を置いておく(温養)だけにして自然に変化をするのを待つということである。「逆」の方法はこのように丹田を使うが、西派のように上丹田や中丹田を使うこともあれば、もっぱら下丹田だけで自然なる変容の生じるのを待つとする教えもある。精から気、そして神への変容は要は微細な感覚が育つということであるから、これは瞑想の深まりと共に自ずから得られるものではある。ただ問題は「どのようにして待つか」という点にある。「ひたすら温養をせよ」というだけではなかなか修行が続かない。そこで西派で提示されているようなある程度の達成感の得られるテクニックが考案されることになる。神仙道ではこうしたテクニックの開発と「本来あるべき修行の形」を唱えてそうしたものを否定することを繰り返してしている。

道竅談 李涵虚(87)第十章 精、気、神を養う

道竅談 李涵虚(87)第十章 精、気、神を養う
逆修の道を行えば、つまり精は化して気となり、気は化して神となる。また順修の道を行ったならば、神は気を生じ、気は精を生じさせることとなる。どうして逆修を行うのであろうか。それは神、気、精が本元(先天)から出て後天へと変じているからである。
〈補注〉神仙道の修行は「逆」修の道を行う。無為自然を唱える神仙道でなぜ「逆」をとるのか、はよく疑問視されるところである。これについては神、気、精が後天へと変じたものであることをあげている。神、気、精は先天の元神、元気、元精から後天の神、気、精へと変じていると考える。この先天の世界は「虚」であり、後天は「実」である。本来、人には虚実がそなわっているが、もっぱら「実」の世界にとらわれている。そうした生き方では適当ではなく、自然そのままの虚実をともに知る生き方が人としてあるべきであると教えるのである。

道竅談 李涵虚(86)第十章 精、気、神を養う

道竅談 李涵虚(86)第十章 精、気、神を養う
〈本文〉
心印経では「上薬の三品とは神と気、精であり、これは修煉を行う上での至宝である」とする。これらは互いに関係を持って活性化し、また変化もする。互いに関係し合っており、互いを養っている。特に修行者はこのことをよく知っておかなければならない。
〈補注〉「神」は意識のエネルギー、「気」は感情のエネルギー、「精」は肉体のエネルギーとされる。これらでは「神」が最も微細なエネルギーであり、「精」が最も粗大であるとされており、それぞれが別のエネルギーではないと考える。そうであるから「神」「気」「精」は人というコップの中で分かれて存しているものの、大きな豆(精)と、中くらいの豆(気)、細かな豆(神)が混入しているような状態となっているといえよう。そうであるからこれらは互いに密接に関係をしているのであり、精神と肉体を分けることなどはできない。心を上として肉体を制しようとすることは初めから無理なのである。

道竅談 李涵虚(85)第十章 精、気、神を養う

道竅談 李涵虚(85)第十章 精、気、神を養う
そして先天の境地が開かれたのが「神明」とされる段階である。西派ではこの境地を「元精(先天の精)」の得られた状態と説明する。ちなみに合気道では「勝速日」が開かれた境地と教える。太極拳も「神明」となると霊活となることができる。つまり自在な速い動きが可能となるということである.。ただ、この場合の「速さ」は間合いによって生み出される「速さ」であって物理的な速さでは必ずしもない。相手の意識の隙間を使っての「速さ」なのである。そうであるから「勝速日」の「日」は「霊(ひ)」でもあり、これが霊的なものであることを教えている。

道竅談 李涵虚(84)第十章 精、気、神を養う

道竅談 李涵虚(84)第十章 精、気、神を養う
神と気が融合して静、柔が得られたならば、ここに先天が開かれる。いうなら神(心)も気(体)の共に「柔」としても良いし、共に「静」とすることもできる。あるいは神を「静」として、気を「柔」としてもかまわない。太極拳では覚勁、トウ(立心偏に董)勁の段階があるとする。これは心に静を得た段階を覚勁、体に柔を得た段階をトウ勁とする。覚勁は感覚が微細になって自分や相手の「勁(武術的な心身の動き)」の働きをつかむことができるようになったレベルであり、トウ勁はそれが自由に使うことのできるレベルとされる。

道竅談 李涵虚(83)第十章 精、気、神を養う

道竅談 李涵虚(83)第十章 精、気、神を養う
〈要点〉
ここで見るべきは「順」の修行の奥義が明かされているところであろう。一般の神仙道では煉精化気、煉気化神、煉神還虚などとして精から神を煉る階梯をとるが、「順」では神と気の融合から始める。これは太極拳などの修行法と同じである。太極拳では先ず「静」を得ることを求める。「静」を得るには自分を捨て(捨己)なければならない。己への過度な執着を捨てることで心が柔らかくなって「静」が得られると教える。そうなると「神」が鎮まり、「気」との融合が起こる。これにより体の「柔」が得られる。この段階が小成とされる。つまり心の「柔」が体の「柔」に及ぶことで真の「柔」が得られるわけである。

道竅談 李涵虚(82)第九章 薬の種類

道竅談 李涵虚(82)第九章 薬の種類
三年と三月は違った意味があるわけではない。面壁了命は「陽砂」を養うことである。形と神をして共に妙ならしめるのであり、本当の教えは虚空へのとらわれを打ち砕き、限りのない変化を促すものである。九年とは九転大還の意である。
〈補注〉三年と三月(百日)とは基本的な心身の合一を得る段階である。一方、九年は面壁でより深い合一を得る。三月、三年のレベルでは時にテクニックを使うこともあるが、九年になるとただ自分の内を感じるだけとなる。既に触れたように煉己は神仙道でいわれることであり、面壁は仏教でいうことである。これらは実質的には同じであるが、肉体のエネルギーの充実を重んじる煉己では了性を言って、精神の安定を重んじる面壁では了命をいうのは逆のように思われるが、あえてそうすることで肉体と精神がともにバランスよく充実したものとなることを示している。

道竅談 李涵虚(81)第九章 薬の種類

道竅談 李涵虚(81)第九章 薬の種類
煉己了性は「陰砂」を養うことである。内にあっては精を重視し、気をのびやかにして、外にあっては外的なことに心を煩わされることなく、身心の二つを安定させる。
〈補注〉「陰砂」「陽砂」という言い方は「丹砂」から来ている。これは辰砂から水銀が得られるなどの化学変化を観察することで不老不死の秘密を解き明かそうとする過程のあったことから来ている語である。煉己は心の悟りを得ることで、「了性」と同じ意味である。つまり心に「静」を得ることで心は安定し、それによって腎にも「静」が得られることでその安定につながるということである。

道竅談 李涵虚(80)第九章 薬の種類

道竅談 李涵虚(80)第九章 薬の種類
大丹が「凝」合した後、炉の中は赤く輝くようになる。また外炉の符火(退陰符)を行って、火加減をして、「鉛」を純陽(乾)とする。そうすることで「汞」を現し「陽砂」を成すことができる。
〈補注〉「大丹が『凝』合した後」とは心身が安定して「無為自然」の感覚が得られた状態をいう。簡単にいえばあまりこだわり、執着がなくなった状態といえようか。「炉」とは下丹田である。それが活性化するようになることを「赤く輝くようになる」としている。外炉とは、イメージを使って小周天を行う時の下丹田をいうものである。イメージを使って気を上げることを「進陽火」、下げることを「退陰符」とする。下丹田(外炉)が活性化すると「進陽火」が可能となる。それと同時に心身に「静」が得られると「退陰符」も起こるようになる。これが周天の成就した状態である。「『汞』を現し」とは心に「静」を得ることで腎が正しく活性化することである。腎が欲望、煩悩により「活性化」すると過度に腎を使うことになり、結局は自分自身を滅ぼすことになる。そうであるから腎の活性化は必ず「静」を得ることを前提としなければならない。

道竅談 李涵虚(79)第九章 薬の種類

道竅談 李涵虚(79)第九章 薬の種類
「鉛」と「汞」とが出会って大丹に還る。小丹を煉る時、腹の中は心地よく酔っているようであり、また子午の周天が生じているようでもある。これを修していると次第に「凝」が得られてくる。これはつまり「鉛」を「汞」とへ投じて「汞」を制している状態であって、「陰砂」を成すことになる。
〈補注〉「子午の周天」は小周天がイメージを使って任脈と督脈に気を巡らせるのに対して周天の本来の状態である心・鉛と腎・汞の合一を得ていることをいうのであって、この段階になるとイメージを使って気を巡らせる必要はない。「子午」は上丹田と下丹田をいうもので、これは心と腎をも象徴している。イメージによる小周天をしばらく修していると、ある種の心地よさを覚えるが、さらに習熟をするとただ心を鎮めるだけで同様な感じ(腹の中は心地よく酔っているようであり、また子午の周天が生じているようでもある)が生じるようになる。こうなるとあえてイメージを使うことなく、ただ坐るだけにする。これを「温養」という。「鉛」を「汞」とへ投じて「汞」を制している」とは心(鉛)の静をして腎(汞)を制することで、これにより生命エネルギーを適切に制御して煩悩、欲望の執着から脱しようとするのである。

道竅談 李涵虚(78)第九章 薬の種類

道竅談 李涵虚(78)第九章 薬の種類
先天の「鉛」と「汞」は同類の陰陽であり、「戊土」をなす。「戊土」とはつまり「外鉛」である。火候を調節して「己土」とひとつにする。「己土」とはつまり「内汞」のことである。
〈補注〉「戊」は「土の兄(つちのえ)」で、「己」は「土の弟(つちのと)」である。つまり「戊」と「己」は本来が「土」に属するものであるから一体化するわけである。これと同様に「鉛」と「汞」も同類であるから一体化することになる。つまり「鉛」は心で「陽陰陽(離卦)」、「汞」は腎で「陰陽陰(坎卦)」これらは共に陰陽を含んでいる(陰陽互蔵)ので、交わりを持つことができるのである。これに対して天(陽陽陽)と地(陰陰陰)は交わることがない。神仙道では「同類」を求めることが重要とする。「同類」が交わることで新たなものを生むことが可能となるのである。

道竅談 李涵虚(77)第九章 薬の種類

道竅談 李涵虚(77)第九章 薬の種類
後天の「鉛汞」は金鼎で煉って薬を生むが、この薬は「外鉛」である。ここにあっては河車を巡らせて「流珠」を制する。「流珠」とはつまり「内汞」のことである。「鉛」と「汞」とはともに関係をして小なる丹を結ぶことになる。
〈補注〉「鉛」は心、「汞」は腎をいう。「鼎」は上丹田で、「炉」が下丹田である。「鉛汞」を金鼎で煉るとは腎のエネルギー(気、精)を神と融合させて浄化することをいう。「流珠」は浄化が失敗して、後天の精として流れることをいう。こうなると再び煩悩、欲望にとらわれるようになる。これを流さないように浄化を続けることが望ましいとする。「珠」とは一種の安定した瞑想状態を表している。「珠」のようにまとまりのある状態である。日本でも「魂」を「たま」というが、これは「珠」のような状態があるべき状態と考えていたためであろう。