太上十三経 老子真伝(9)

太上十三経 老子真伝(9)
孔子は周に行って老子に「礼」を問うた。老子は「先生の言われるのは人でいうなら骨ですね。骨は朽ち果ててしまいます。『礼』ということであれば、君子は時を得たならば王の迎えにも応じるでしょうが、時を得ることが無ければそれを受けることなく何処なりとも立ち去るでありましょう。私に『礼』を問われるならば、よく商いをする者は深く商いをすることを隠して全く何もしていないような『虚』であることと答えましょう。君子の徳が盛んであれば、それは愚かに見えてしまうものです。先生は奢りや物欲、色欲や淫欲を無くして、気持ちを無にするべきです。こうすれば先生にとって有益となりましょう」と言った。
ある日、老子は孔子に問うた。「先生は道を得られてますか」と。孔子は「二十七年この方、得ておりません」と答えた。老子は「道の方から、それをして人に得させるようにすれば道が得られないという『道の人』は居ないものです。道の方から人に行うようにさせれば、道を実践できない『道の親』は居ないものです。道の方から人に告げさせれば、道を告げられない『道の兄弟』は居ないものです。道の方から人に伝えさせれば、道を伝えられない『道の子』は居ないものです。こうすれば道を得られない人は居ないものです。中(庸)ということが中心でなければ道と共に居ることは出来ないものです」と言った。
孔子は老子に仁義のことを語った。老子は「糠をまけばまわりが見えなくなります。蚊や虻に刺されれば夜になってもかゆくて寝れなくなります。今、仁義はまったく行われていません。わたしの気持ちは憤りでおおいに乱れています。先生は天下をして素朴さ(樸)を失わせないようにさせて下さい。風が吹ても、徳の風が吹くように、これが自然であるようにして下さい。またそうであればどうして道の実践されないことがありましょうか。殊更に大げさな儀式を行ってそこに礼を求めるのは大きな鼓を負って亡くなった子供を探すようなものです。そうしたことがあるでありましょうか。鵠は日に焼けていないから白いのでしょうか。烏は日に焼けないでも黒いでしょう。こうした違いをもってして強いてどちらが美しいということが出来るでしょうか。名誉ということを考えてみても、これを広く人の本来の性質とすることが出来るでしょうか。泉が枯れると魚は陸に住むようになるでしょうか。少しでも湿り気があれば息をすることが出来るでありましょうし、少しでも水滴を得ることが出来れば潤うことでありましょう。そうして川や湖を忘れることは無いのです」と言った。

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