テーマ:両儀老人夜話

両儀老人百物語 第八十話(5)

第八十話 「双辺太極拳」小考(5) さて双辺のベースとなっている呉家であるが、呉家も何度かの部分的な改定がなされている。双辺の特徴は(1)最初の単鞭を斜めに行うこと、(2)白鶴亮翅に入る時に大きく前傾をしないこと、(3)斜飛に入る時に両腕を大きく回すこと、などがあげられる。これらが共通して見られるのは1934年に出された『呉鑑泉氏太極…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第八十話(4)

第八十話 「双辺太極拳」小考(4) 個人的な感想を言えば双辺は本来は中定歩であったと思われる。これを「太極拳」として教授する時に中定歩ではあまりに太極拳のイメージと異なるので、弓歩で練るようにしたのではなかろうか。そして一部の中定歩をベースとする形意や八卦を中心に練習をする弟子には中定歩のままで教えていたと考えられるのである。つまり双…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第八十話(3)

第八十話 「双辺太極拳」小考(3) もうひとつ双辺太極拳で重要な問題として弓歩か中定歩かということがある。陳の著した『中華国術太極拳教材』には「弓歩」とあるところの多くが陳の示す写真では「中定歩」になっている。これは通常の練習では弓歩を使っていないことを示すものと思われる。写真を撮る時だけ動きを変えようとしても、長い時間、何枚も写真を…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第八十話(2)

第八十話 「双辺太極拳」小考(2) もし、この太極拳が中央国術館で制定されて標準太極拳として全国に普及させることを目途としていたとするのであれば、これがほぼ呉家の套路そのものであることは大きな疑問として残るであろう。王樹金はこれを「正宗太極拳」として教えていた。これは「正統なる太極拳」という意味である。呉家が楊家から派生したことは明ら…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第八十話(1)

第八十話 「双辺太極拳」小考(1) 双辺太極拳は主として日本と台湾でこれを練る人が多いようである。双辺は台中で陳ハン嶺が教えていた。日本に初めてこの太極拳を伝えた王樹金は陳ハン嶺の弟子である。一般的に双辺は戦前の大陸、中央国術館で制定されたものとされている。戦前の中国では日本軍の強さは武術(柔道)で鍛えていることによると考えて「強種強…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第七十九話(下)

第七十九話 単鞭と一条鞭(下) 太極拳の理論的な純化の過程で単鞭が弓歩から中定歩へと移って行ったと述べたが、同じく優れた理論的な純化を行っている簡易式で弓歩を取っているのはどうしてであろうか。それは中定歩で套路を練るにはかなりの脚力が必要であって万人向きではないということがひとつにはある。鄭曼青は自らの太極拳を「簡易式」としたように身…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第七十九話(中)

第七十九話 単鞭と一条鞭(中) 太極拳には行功と用法架とがある。通常の中国武術では母拳と砲捶といって別の套路になるが、太極拳ではひとつの套路で演練の仕方を変えている。これはホウ勁が「未発」の勁であることと関係している。太極拳の行功は未発である。それは力の発生を途中で止めているからである。それをそのまま発すれば用法架となるわけである。力…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第七十九話(上)

第七十九話 単鞭と一条鞭(上) 太極拳には単鞭という技がある。これは二つの方法があって、ひとつは(1)掌を下から上へと移すやり方である。もうひとつは(1)やや後ろから回して前に打ち込むように掌を動かすものである。老架(露禅架)では(1)がとられている。新架(澄甫架)では(1)で行う人もいれば、(2)で行う人もいるが全体としては(2)の…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第七十八話(下)

第七十八話 渾元トウ瞑想記(5)『定観経』篇(下) 四候以降は仙人、真人、神人、至人の段階が示されている。これは仙人が最も低い境地であり、至人が最も高いとする考え方が示されている。四候の「仙人」とは千歳まで生きることのできる存在である。いわゆる不老長寿の「仙人」といことである。これで「命」の修行は完成したことになる。しかし、いくら長寿…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第七十八話(上)

第七十八話 渾元トウ瞑想記(5)『定観経』篇(上) 『定観経』の最後には「七候」として瞑想の七つの段階について記している。 最初にあるのは心を鎮めることである。これは神仙道では「煉己」という。実質的に修行はここで終わりである。後はこの段階で得られたことを深めるだけである。神仙道の瞑想は坐忘という。これはただ静かに坐っているだけである…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第七十七話(下)

第七十七話 意拳の試声と臨済の喝(下) 日本の武術でも身心を統一するための方法として掛け声が重視されて来た。中国武術では一般に「フン、ハッ」の掛け声がある。これは「吽」と「阿」である。「吽」は鼻から息を抜き体を緊張させて短く鋭く力を発する時に用いられる。一方、「阿」は口から息を吐き体をリラックスさせて長く大きな力を発する時に用いる。人…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第七十七話(上)

第七十七話 意拳の試声と臨済の喝(上) 禅では「カッ!!」と禅僧が大きな声を出して人の迷妄を打ち砕くといったイメージがある。「喝」で有名なのは臨済慧照である。その教えを記した『臨済録』には、ある僧が「仏法とは何ですか(いかなるかこれ仏法の大意)」と問うたところ、 「師すなわち喝す」 としている。これは必ずしも「カッ!!」と叫んだと…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 七十六話(4)

第七十六話 形意五行拳における三尖相照(4) 形意拳では修行の段階として明勁、暗勁、化勁の三段階を示している。これを五行拳でいうなら順歩の劈拳は明勁であり、ヨウ歩の崩拳、炮拳は暗勁である。明勁とはある程度の距離を持つことで攻撃の威力を得ようとするもので、これは通常の突きと変わりはない。劈拳、讃拳ともに掌、拳は真っすぐに出される。こうし…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第七十六話(3)

第七十六話 形意五行拳における三尖相照(3) また形意拳の最もベースとなる劈拳で掌を打ち下ろすのは足の上である。崩拳の場合は中心でも、足の上でも、あえて行えば共に突くことは可能であるが、劈拳では中心に掌を打ち下ろすのはやり難いところがある。形意拳では束身を使う。束身とは蓄勁の方法で、体の中心で蓄勁を行うのが形意拳の特徴である。そうであ…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第七十六話(2)

第七十六話 形意五行拳における三尖相照(2) ここで形意拳の「三尖相照」を考える場合に最も留意しなければならないのは「腰」の力を使う方法と、「足」の力を使う方法の違いである。ほとんどの武術は「腰」の力を使う方法をとるが、形意拳では特に「足」の力を使う方法に特色がある。それを形意五行拳(形意拳の五行拳)について見るならば、崩拳は体の中心…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第七十六話(1)

第七十六話 形意五行拳における三尖相照(1) 「三尖相照」とは鼻先、拳先、つま先の三つが互いに適切に関係することで合理的な打撃力を得ることができるという秘訣である。これは当然といえば当然であるが、これらの関係はそれぞれの武術によって同じではない。力を集中させることを重視すれば大きな力を発生させることができる。しかし、安定した姿勢で大き…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第七十五話(下)

第七十五話 渾元トウ瞑想記(4)『赤文洞古経』篇(下) 『赤文洞古経』には「その無象を養うは、象、常に存すが故なり」とある。ここでの「象」とはエネルギーの形ということであり、この世にはエネルギーが様々な形をとって存在している。それらは常に変化、運動をしておりきまった形を持つことはない。しかし、修行においては一定の形(象)をもって修行を…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第七十五話(上)

第七十五話 渾元トウ瞑想記(4)『赤文洞古経』篇(上) 神仙道では「三教合一」が説かれ、武術では「三拳合一」が言われる。「三教」とは儒教、道教、仏教である。「三拳」とは形意拳、八卦掌、太極拳である。この「合一」は「全て等しい」というように理解されることもあるが、三教合一や三拳合一はそういう意味ではない。つまり「形意拳と太極拳は同じ」と…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第七十四話

第七十四話 渾元トウ瞑想記(3)『大通経』篇 『大通経』でも「静」を守ることの重要さが説かれている。「静」を守ることで「本来の自分」である「性」が発現して来るというのである。神仙道では「性」「命」双修といわれるように本来の自分の心の働きである「性」と、体の働きである「命」がを共に開くことが求められる。往々にして宗教的な修行では「心」が…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第七十三話(下)

第七十三話 当身と合気(下) こうした合気道の武術的な問題点を踏まえて、盛平が戦前、戦中あたりに唱えていた「合気は当身が七分」の教えが、合気道の実戦用法とされることもあるわけである。これは例えば相手を投げるのであれば、当身でその動きの七割ほどを制してから行わなければならない、ということであると解されている。ただ、合気道では盛平の生涯を…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第七十三話(上)

第七十三話 当身と合気(上) 大東流の「合気」はあくまで柔術技法を円滑に行うためのものである。その意味では柔術で多用される「当身」と何ら変わりがあるものではない。柔術における当身は打撃の強さが重視されるのではなく、適切なタイミングでそれを行うことで、相手の意識をかく乱させることを意図している。そうであるから当身は拳術の突きとはまったく…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第七十二話

第七十二話 渾元トウ瞑想記(2)『日用経』篇 『日用経』では「常念清浄」が説かれている。常に「清浄」を念じること、「清浄」であろうと努めることが重要であるというわけである。それには第一に食事が適切でなければならないとしている。仏教では食事についての禁忌があるが、神仙道では特にそうしたものを設けることはしない。もちろん門派によっては禅に…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第七十一話(4)

第七十一話 大東流「三大技法」の可能性(4) わたしは柔術と合気柔術の違いは「三次元技法」「四次元技法」として分けるのがよかろうと思う(こうした発想は鶴山も『合気道』で触れていたが、それが「柔術」と「合気柔術」の違いとして明確には示してい)。「三次元技法」を一人を相手とする攻防、「四次元技法」を多人数を同時に相手にする攻防と位置付ける…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第七十一話(3)

第七十一話 大東流「三大技法」の可能性(3) わたしは大東流の体系は合気之術(御式内、御信用之手)と、柔術、合気柔術に分けることで新たな可能性を得ることができると思っている。先にも触れたが大東流を特色付ける技である入身投げや四方投げ、一か条などは全て坐技でなければうまく掛けることができないのであり、自由に歩法を使われると、逃げられてし…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第七十一話(2)

第七十一話 大東流「三大技法」の可能性(2) ここで改めて問題点を整理すれば、ひとつは大東流は「技が実際には使えない」という問題点、そして「合気を会得するためにシステムが確立されていない」という問題点があるように思われるのである。それをシステム上において解決する枠組みに「合気之術、柔術、合気柔術」があると考えるのである。大東流は伝書の…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第七十一話(1)

第七十一話 大東流「三大技法」の可能性(1) 大東流(ここでは合気道も含む)は、ひじょうに優れた武術であると思うと同時に、入身投げや四方投げ、一か条など大東流を特徴付けるとされる技法が実際にはきわめて使いにくいものであることに疑問をもっていた。「王者の座」と題するフィルムでは藤平光一と植芝盛平が、アメリカの軍人を相手に技を掛けてみせる…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第七十話(下)

第七十話 渾元トウ瞑想記(1)『清浄経』篇(下) 既に触れたように『清浄経』では「静」の実践を強調している。「静」を得れば身心が澄み切った「清浄」な境地に入ることができる、というのである。そして、清浄なる境地は「空」でもあるといっている。それは、澄み切った境地ということで、仏教のいう「空」とは違う。また、これは「無」であるとも述べてい…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第七十話(上)

第七十話 渾元トウ瞑想記(1)『清浄経』篇(上) 日々の瞑想は十代の頃からほぼ欠かさずやっているが、それはヨーガの方法であったり、密教、禅であったり、古神道の鎮魂、または武術の馬歩トウ功であったこともある。そうした中で現在は「渾元トウ」による瞑想をしている。渾元トウは、いうならば少し膝を緩めて「ただ立っているだけ」のような瞑想である。…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第六十九話(4)

第六十九話 内丹術と武術(4) では、なぜ内丹的なものが中国武術で重視されるのか。それは渾元トウを練ることで「自ずから然る」動きとして任脈、督脈という中心線の脈が開けてくるからである。これによって「自ずから然る」べき「集中」が得られるようになるのであり、このような自然な「集中」は身心に無理を強いることがないわけである。そうであるから内…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

両儀老人百物語 第六十九話(3)

第六十九話 内丹術と武術(3) 中心線を開ける鄭子で特徴的なのは提手上勢と手揮琵琶である。この二勢は左右が逆になるだけで、ともに両腕を地面と水平にして合わせているだけの形である。一般的には両手を近づけ中心線への力の集中を促すのであるが、鄭子ではそれをしない。また、この形は起式、単鞭とならんで基本トウ功として重視されてもいる。興味深いの…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more