道竅談 李涵虚(55)第八章 内薬と外薬

道竅談 李涵虚(55)第八章 内薬と外薬
太極拳において「綿綿不断」が重要であるのは、これを行うことで一定の集中を得ることができるからである。こうした「綿綿不断」の動きを見出したことは張三豊の大発明であった。例えば少林拳の動きをゆっくり行っても「綿綿不断」にはならないからである。どうしても技と技の間がうまくつながらない。太極拳の動きは技が極まらんとして極まらずに次の動きへと移行する。これがあることで「綿綿不断」が可能となる。技が極まらなければ力の集中が得られない。そうであれば攻撃力を養うことはできなくなってしまう。しかし一般の武術のように技を決めてしまうと動きに「断(絶)」が生じてしまう。この問題を「抽絲勁」によって解決し得たのが張三豊であったのである。

道竅談 李涵虚(53)第八章 内薬と外薬

道竅談 李涵虚(53)第八章 内薬と外薬
〈要点〉
ここでは内と外の「薬」の問題が取り上げられている。内とは心であり、外は体である。この二つの修行がともに重要であることを神仙道では性命双修と称する。ただ、ここで重要なことは性命双修は心の修行と体の修行を共に行うということではない、という点にある。つまり心の修行はそのまま体の修行となるのであり、体の修行は心の修行となるという視点である。これを最も優れた形で示しているのは太極拳であろう。心の修行は「静」を得ることを第一とする。体の修行は「柔」を得ることて果たされる。この二つのことを同時に行い得る方法として「ゆっくり動く」ということが見いだされたのが太極拳であった。

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(13)

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(13)
七十二截腿・暗腿などの数は必ずしも技の数ではなく、陰陽の歩法を示すものであることは既に触れたが、もうひとつ外側と内側の歩法を示すものでもあることも述べた。截腿であれば、陽の腿法では相手の前足を擺歩の形で蹴ることになる。これは狸猫上樹と同じである。この時に相手の上段を打つことで更にこの腿法の効果を高めることができる。一方、截腿の陰の腿法では相手の前足の内側に扣歩で入って、膝に足を掛けて体勢を崩すことができる。これは白猿献桃と同様である。また暗腿での陽の腿法は相手の前足の後ろに擺歩で踏み込み、後ろに入る。これは狸猫上樹に通じる。狸猫上樹で前に踏み出すのは暗腿の練習でもある。陰の腿法であれば、相手の前足の後ろ、両足の間に扣歩を差し込むような形となる。この場合、間合いが遠ければ足を跳ね上げるようにして内またを蹴る(斧刃脚)し、近ければ体当たりをすることもある。これは白猿献桃と等しいし、換掌とも共通している。

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(12)

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(12)
八卦掌の截腿、暗腿は七十二截腿、七十二暗腿であるとか、四十八截腿、四十八暗腿と称されることがある。他にも「数」はかなり異なるものが伝承されているが、それは例えば七十二であれば、陽を表す「九」と、陰を表す「八」をかけて得られた数なのであり、これは截腿、暗腿が陰陽の腿法によって構成されていることを示しているものに他ならない。四十八も同様で陰である「八」と陽である「六」で構成されている。この陰陽の腿法というのは、扣歩と擺歩である。扣歩を陰の腿法、擺歩を陽の腿法とする。形意拳の狸猫上樹は陽の腿法を、龍形八卦掌の換掌は陰の腿法を練ることになっている。また、これを相手の外側(陽)から入身をする方法と、相手の内側(陰)から入身をする方法とする場合もある。

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(11)

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(11)
「閃転騰ダ」は入身の動きであり、それは扣擺歩によって得られる。そうした修練の上に截腿、暗腿などの方法がある。そのため八卦掌では走圏を重視するのである。入身の動きそのものは優れたと評される門派の武術には見られるものであり、七星歩であるとか玉環歩であるとか称されている。形意拳の砲拳などもこうした入身の歩法を用いている。砲拳の歩法は七星歩や玉環歩と同じで死角からの入身は一度だけであるが、八卦掌の走圏で扣歩、擺歩を連続して行う歩法では何度でも入身をすることが可能となる。こうしたことのために八卦掌は「巧」であるとされるのである。

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(10)

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(10)
「ダ〈手篇に那〉」は転換の動きである。実際には相手の後ろに回り込んでの攻撃となる。また「騰」による暗腿は相手の後ろから蹴る「ダ」につながるが、これは八卦掌を代表する理想の攻防のかたちの一つである。八卦掌では体を後ろに反らせての蹴り(龍形八卦掌では白猿献桃)もあるが、それは暗腿の蹴りを行うための練習である。これは相手を蹴るのではなく、一気に背後に回り込むための勢いを得るために足を挙げている。身法としては大きな歩幅で一歩を踏み出すのと同じとなる。「ダ」には押さえる、挫くの意がある。転換とは攻防を反転させることにある。相手が知らない内に、後ろに回り込んでこちらが主導的に攻撃をする状態を得るのである。そのためにいろいろな暗腿の方法が工夫されている。

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(9)

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(9)
「騰」も入身の動きである。これは相手の攻撃を躱すことで入身を行う。八卦掌では暗腿を用いる。たとえば相手の前足の後ろに踏み込んで、その背後に回り込むことになる。これは合気道では裏の入身となる。また肘法は暗腿を用いて入身をする時に用いられる。相手とすれ違う時に肘を打ち込むのである。これは相手の前に出る勢いと、こちらの踏み込む勢いが相反して働いているので、動きの効果はただ肘を打った時の二倍になる。「閃」と「騰」の入身の違いは、「閃」が相手の攻撃の勢いとぶつかる部分があるのに対して、「騰」はそれがない点にある。

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(8)

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(8)
「転」は転身である。程派の八卦掌では転身を多用する。程派のいう游身連環八卦掌の「游身」は具体的には「転身」を意味している。「游」には水面を漂うの意がある。このように相手に自分の中心軸をとらせないような身法を程派では特徴とする。こうした方法は新陰流では「転(まろばし)」として、深く工夫がなされた。その前の影(陰)流では、相手の攻撃を躱す方法が考えられた。相手の攻撃を躱す時にスキが生まれる。これを使って反撃することを影流では考えたのである。こうした考え方は八卦掌では次に触れる「騰」の秘訣に係るもので、新陰流は八卦掌でいう「騰」と「転」を使っていることになる。ちなみに「閃」は一刀流の「切り落とし」に近い。これは相手の構えを打ち落としてしまうものである。

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(7)

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(7)
さて八卦掌の「閃転騰ダ」であるが。これを細かく見るならば「閃」は入身を表している。この字には「身をかわす」という意があるし「稲妻」の意もあって、截腿の動きによく合っている。八卦掌の「閃」は相手の前足を蹴ってその動きを止める截腿を基本とする。同様の動きは形意拳の狸猫上樹にも見ることができるし、太極拳では採腿と称される。採腿そのものは太極拳にはないが、分脚やトウ脚は採腿の変化したものである。おそよ採腿は全ての太極拳の技に含まれており、そのために露禅架では膝を高くあげる歩法を用いている。これは八卦拳も同様である。龍形八卦掌の転掌式で片足たちになるのも採腿の表現である。この場合は扣歩の採腿であり、形意拳・狸猫上樹の擺歩の採腿と対をなしている。

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(6)

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(6)
また一か条の当身の動きは脇差で相手を刺す動きであると解説されることもある。また合気道において「手刀」は刀の代用であることを考えると、右の刀で切りつけ、左の刀で刺すという流れを一か条には見ることが可能となる。つまり一か条には合気二刀剣に通じる動きが含まれているのである。よく言われるように一か条が合気道や大東流を代表する技であるとするなら、こうした両手(二刀)を使う動きは合気道を代表する動きということにもなろう。確かに合気道の呼吸法(合気揚げ)は、両手持ちで始める。こうした「手ほどき」は一般な柔術では片手持ちで行う。実戦において両手を持たれることはほぼないからである。こうしたところからも合気道における両手を使う身法は改めて考えてみる必要のあるものといえよう。両手を使う動きは中国武術には一般的であるが、日本の武術には見られないものである。合気道の動きは「両手の使い方」の視点から見直してみる必要があろう。

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(5)

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(5)
合気道の一か条で相手が打って来ると仮定したなら、これは太極拳の四隅推手と同様となり、相手の攻撃をさばいて、そのまま横に流す形と解するのが妥当となる。そうなると手刀を交えた後の脇腹への当身は、技の流れを止めるものとなり必要がなくなる。そうであるから一か条の当身を省略する人が少なくないのであろう。つまり相手の攻撃を受けるという流れであれば、それが必要ないからである。合気道の一か条で当身を入れるのは、つまり立円の動き(正面打ち)の流れを当身で終わらせて、続いて平円の腕抑えに入るためなのであって、そうでなければ一か条に正面打ち(立円)と腕抑え(平円)の二つの技が含まれていると見ることはできなくなってしまう。

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(4)

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(4)
合気道で一か条が重視されるのも、この技には立円と平円の動きが共に含まれているからに他ならない。一か条はこちらが手刀で打つのを相手は受ける。ここで相手の中心軸を制しているので、相手が強引にこちらの攻撃を受け止めても、こちらはそれに反応することなく相手の意識をそこに止めておく。そして横から当身を入れて、身心の秩序を失わせて次の相手の腕を制する動きに移るのである。これが一か条を構成する一連の攻防である。一か条にはこちらが打つのか、相手から打つのを受けるのかの問題が実はある。ほとんどの合気道の技は「受け」から始められているので、これも相手が打って来るという場面を想定することが、多いようであるが、立円の動きから平円の動きにつなぐと考えるならば、こちらが打つ形とするのが妥当である。

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(3)

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(3)
呉家の太極拳は古くは立円の動きが多くあったが、時代を追うにつれて平円に変化している。立円の動きは力の集中に重要であり、平円は相手の力をさばくのに効果がある。形意拳の動きの基本は「起落」であるが、これは立円の動きと同じである。ちなに呉家で立円の動きが強調されているのは、初めに楊露禅が北京で教えたのが太極拳の用法架(実戦用の套路。砲捶ともいえようか)であったためである。後に(呉)全佑は楊班侯から本来の太極拳である行功を学んだのであった。そのため呉家には古い時代の楊家の用法架と行功のふたつの特徴を見ることができる。単推手では相手が真っ直ぐに胸のあたりを押してくるのを、受手はそれを化して縦円へと変化させる。上から相手の頭をめがけて掌を降ろすと、押された方はそれを化して再び真っ直ぐに押す。この推手では体の中心軸の認識を得ることと、中心軸を取られないように化する方法を学ぶことになる。一方、平円の推手である四隅推手では歩法を用いて横のさばきを使って相手を制することを修練する。

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(2)

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(2)
合気道では入身を重視するが、それには表と裏がある。「表」の入身は相手の攻撃の勢いを受け止めて、それを逸らせることで死角を現出させる。一方「裏」の入身では相手の攻撃を受け流すことで死角を生じさせる。これは太極拳でいうなら立円と平円の動きということになる。立円は四正推手で練り、平円は四隅推手(大リ〈手篇に履〉)で練ることになっている。四正推手は合気道の一か条(正面打ち腕抑え)の「表」とほぼ同じ入身を使うし、四隅推手は同じく一か条の「裏」と同様の動きとなる。現在、太極拳の単推手では平円と立円が別々に練習されている。それはそれで良いのであるが、ある程度、平円と立円の推手に習熟したならば、それをつなぐ練習をしなければならない。現在、多くの太極拳の套路の練習でも「化(さばき)」が重視されていて、平円の動きが多用されるが、本来は平円と立円の動きはつながっていなければならない。

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(11)

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(11)
「閃転騰ダ」は入身の動きであり、それは扣擺歩によって得られる。そうした修練の上に截腿、暗腿などの方法がある。そのため八卦掌では走圏を重視するのである。入身の動きそのものは優れたと評される門派の武術には見られるものであり、七星歩であるとか玉環歩であるとか称されている。形意拳の砲拳などもこうした入身の歩法を用いている。砲拳の歩法は七星歩や玉環歩と同じで死角からの入身は一度だけであるが、八卦掌の走圏で扣歩、擺歩を連続して行う歩法では何度でも入身をすることが可能となる。こうしたことのために八卦掌は「巧」であるとされるのである。

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(7)

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(7)
さて八卦掌の「閃転騰ダ」であるが。これを細かく見るならば「閃」は入身を表している。この字には「身をかわす」という意があるし「稲妻」の意もあって、截腿の動きによく合っている。八卦掌の「閃」は相手の前足を蹴ってその動きを止める截腿を基本とする。同様の動きは形意拳の狸猫上樹にも見ることができるし、太極拳では採腿と称される。採腿そのものは太極拳にはないが、分脚やトウ脚は採腿の変化したものである。おそよ採腿は全ての太極拳の技に含まれており、そのために露禅架では膝を高くあげる歩法を用いている。これは八卦拳も同様である。龍形八卦掌の転掌式で片足たちになるのも採腿の表現である。この場合は扣歩の採腿であり、形意拳・狸猫上樹の擺歩の採腿と対をなしている。

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(1)

第九十話 八卦掌における「閃転騰ダ」と截腿、暗腿(1)
「閃転騰ダ〈手篇に那〉」は八卦掌の特徴を表す語であるが、これは「入身」をいうものである。つまり八卦掌の根本は「入身」にあることがこれによって示されているといえよう。また八卦掌を代表する稽古法に走圏があるが、これも扣歩と擺歩を繰り返すことで入身の歩法を練っているわけである。入身を行うには相手との角度を変化させなければならない。言うところの「死角に入る」わけである。およそ攻防において「術」を使おうとするのであれば、何らかの形で入身を欠くことはできない。それほど入身を使うこと、つまり死角を利用することは攻防において優位を得るためには必要なことなのである。それは死角に入ることで、相手からの反撃を受けることのない位置に居ることができるからである。

道竅談 李涵虚(52)第七章 後天の階梯

道竅談 李涵虚(52)第七章 後天の階梯
「面壁」とは、底も見えないほどの崖に臨んだとしても、なんの動揺することもないような状態でいることであり、単に壁に向かって坐っているということではない。「九年」とは九転であって、九転の功が深ければ、あらゆるものを化することが可能となる。
〈補注〉「底も見えないほどの崖に臨んだとしても、なんの動揺することもないような状態」とは肉体が損傷されることの恐怖から自由になることを意味している。つまり肉体を離れて精神の自由を得ることである。「九転」の「九」は「陽」を象徴する数であり、「転」は小周天をいう。坐禅のようにただ瞑想をするだけでは、真の陽を開くには困難で小周天と温養を繰り返し行うことで適切に瞑想を深めることができると教えている。

道竅談 李涵虚(51)第七章 後天の階梯

道竅談 李涵虚(51)第七章 後天の階梯
しかし、この陽神は五行を脱することはできない。ここに至れば真仙と号することができるものの更なる向上が求められるのであり、面壁九年を行わなければならない。これが煉神還虚である。
〈補注〉「陽神」もひとつの瞑想の境地を象徴するものである。これを錬金術の聖なる小人・ホムンクルスのように説いている文献もあるが、陽神とは「純陽なる神」であり、この「神」は精神的なエネルギーをいうもので、感情のエネルギーである「気」、肉体のエネルギーである「精」にならぶものである。陽神が現れるとは精神の自由を得るということであるが、しかり肉体と完全に離れて自由であるわけでもない。

道竅談 李涵虚(50)第七章 後天の階梯

道竅談 李涵虚(50)第七章 後天の階梯
そして丹を得たならば温養して安定させる。日々に陰符に陽火を運び、これを育てて、の液とし、それを呑んで五行の気をひとつに帰する。これは金液還丹と称せられる。この丹を得た(服食)後には、聖胎を結ぶことができる。十月の功が成就すれば、陽神が出現する。
〈補注〉小周天を行って一定の瞑想状態を得たならば、しばらく周天を止めて瞑想状態の安定と深化をはかる。これが「温養」である。一定の時期を過ごしたなら再び小周天を行う。これが「陰符の陽火を運び」である。こうして小周天を続けていて、新たな瞑想の境地を得られることを「金液還丹」という。そして再びその状態を安定させる。これが「服食」である。こうした安定状態が深化をすることを「聖胎を結ぶ」という。そしてまた安定を試みるのが「十月の功」と称するものである。このように小周天と「温養」を繰り返して瞑想の境地を深めるのである。