第九十一話 合気上げと呼吸法(5)

第九十一話 合気上げと呼吸法(5)
「柔術」とは、相手との対立を解消するための方途であった。しかし聖徳太子の時代にはこれを技術として確立するとことまでは達していなかったと思われる。理念としては確立されていたが、技術としての完成には至っていなかったわけである。それはまた「和」の流れを現在に受け継ぐ「専守防衛」も同様である。攻撃することなく、ただ防衛をするということをどのようにしたら実現されるのかは明確に分かってはいない。そのため「小さな攻撃」をもって「専守防衛」としているのであるが、それでも攻撃をしようと思えば可能ではあるので「専守」とはいえないのが現状である。

第九十一話 合気上げと呼吸法(4)

第九十一話 合気上げと呼吸法(4)
この日本武術の「柔」の流れは思想としては聖徳太子の憲法十七条にすでにその淵源を見ることが可能である。その第一条には「和をもって貴しとなし、忤(さか)らうことの無きを宗となせ」とある。「和」はいまでは「わ」と読むのが一般的であるが古い文献には「やわらかき」と読ませている。つまり「やわらかい」ことが、対立すること(さからうこと)と反対の概念として考えられていたわけである。そうであるから「和」は対立を解消する方法でもあるわけで、それを習得する技術として「柔術」が確立されて行くことになる。

第九十一話 合気上げと呼吸法(3)

第九十一話 合気上げと呼吸法(3)
大東流のような「合気」はこちらから力を送り込むための前段階としてあるもので、この前段階として相手と一体化する合気を用いているもののその力を発する段階では極めて攻撃的となる。つまり合気と称する技法に中には合気ではないものをも含んでいるということである。「合気」とは「相手の攻撃(情報)をそのままに受け入れるとみせて、その判断を誤らせる状態に導く技法」とすることができよう。「合気」は日本の柔術に独特の概念であるが、それは日本武術の「柔(やわら)」の流れから生まれたもので、基本的には柔術の範疇に属する技法と解することができる。

第九十一話 合気上げと呼吸法(2)

第九十一話 合気上げと呼吸法(2)
大東流の合気上げでは合気をかけると相手の体が反るようになるが、合気道の呼吸法ではそうしたことは起こらない。これはひじょうに重要なことで、いうならば植芝守平は大東流の合気を拒否したということになるのである。考えるに武田惣角と植芝盛平との決別は「合気」の受容をめぐってのことであって、盛平は惣角の教える「合気」を真の合気ではないと考えていたのではなかろうか。そして真の合気によって発する力を「呼吸力」と考えたと思われるのである。呼吸力は以下に述べるように日本における柔術史において「柔(やわら)」技法の頂点に位置するものということができるのである。

第九十一話 合気上げと呼吸法(1)

第九十一話 合気上げと呼吸法(1)
合気道、大東流の基本練習には座り技で、両手を取られて、それを上げるという練習がある。これを合気道では「呼吸法(呼吸力養成法)」といい、大東流では「合気上げ」と称している。また合気道では呼吸投げが多くあるが、合気投げは「幻の技法」となっている。一部に「合気投げ」と称する技も伝っているもののその実際は明らかではなく、呼吸投げのような展開を見ることはできない。つまり合気を冠する合気道において合気を冠する技がないというのが現状なのである。それに対して大東流ではどの技であっても合気をかけることを基本とする。柔術のレベルでは特に合気を使わないこともあるが、相手の体を反り返させる「合気」を使ってこそ大東流の特徴が発揮されるという。

道竅談 李涵虚(67)第八章 内薬と外薬

道竅談 李涵虚(67)第八章 内薬と外薬
先天の基を築き、絳宮で「液」と化して、元海に帰する。「液」とは気が化したものである。またの名を内薬ともいう。しかし、いまだ丹となってはいない。これは清と静の功、内と外を兼ねている。丹と薬の違いはこうしたところにあることを、修行者に示しておく。
〈補注〉「絳宮」は中丹田のことである。「元海」は下丹田である。「液」とあるのは小周転を行っている時の感覚が液体のようなもの(気)が体の後ろから前のルート(督脈、任脈)を流れるように感じられることによる。この「液」がただ気が流れるだけの状態から心のエネルギーの溶け込んだ気になるということをただの気と区別して「金液」と称するわけである。これらはいづれも象徴的な表現であるに過ぎず、要は微細な感覚が開いて自由な思考と行動を得ることが可能なるのである。

道竅談 李涵虚(66)第八章 内薬と外薬

道竅談 李涵虚(66)第八章 内薬と外薬
また知るべきは、外丹は外薬と等しいのであるが、いまだ丹となっていない場合に外薬と称するのである。ただ、この時にもおおいに坎と離は交わり、河車は転じている。気は化して液となって(金液)、黄房へと降る。また外薬と称するのはいまだ丹となっていないためであるが、同様に内丹は内薬と同じであり、いまだ丹となっていないのは内薬と称する。
〈補注〉「薬」は修行の途中での変容を意味するのであり、「丹」は修行が一定の成就をみたことを示している。そうであるから丹が得られていなくても、坎(腎・肉体)と離(心・精神)の融合は進んでいるのである。ただ門派によっては「薬」と「丹」を区別しないこともある。「薬」を得れば自ずから「丹」を得ることができるからである。歴史的にいえば「丹」は神仙道が鉱物の科学的変化から永遠不壊の秘密を知ろうとした人々の用いていた用語で、本来は硫黄と水銀の化合物(辰砂)のことである。煉丹などの用語も同様である。一方、「薬」はいろいろな薬を飲むことで不老不死が可能となると考えていた人々の用いていた用語である。しかし、流し時代と多くの人々の試みを経て不老不死を得ることが不可能であることが分かって「丹」や「薬」は別の意味を持つようになったわけである。

道竅談 李涵虚(65)第八章 内薬と外薬

道竅談 李涵虚(65)第八章 内薬と外薬
さらに知るべきは、内丹は内薬であり、それは金液還丹であるということである。これをまた「内薬」ともいう。「内薬」とあるようにこの造化(つまり心身の変化)は内にある。外丹は外薬であり、金丹であってまた「外薬」ともいうようにこの造化(つまり心身の変化)は外にある。この大丹は内と外とを兼ねている。
〈補注〉内丹は内薬であり、これを煉ることを金液還丹と称する。これは内的な覚醒への道であるが、それには金丹つまりり外丹、外薬を煉らなければならない。「金(烏)」は太陽を象徴し(太陽の烏は黒点のこと)、これは「心」をいう。一方、「玉(兎)」は月のこと(月の兎に見える影のこと)とされ、これは「腎」をいう。金液還丹は内的なもの(金液)が外的なものと合一する(還丹)ことを意味している。これが成ったら大丹を得たとする。いつものことであるが西派はやたらに「用語」を多用したがる傾向がある。それは多く統一のないまま使われてきた「用語」に適切な意味を与えようとする試みでもあるが、現在の我々からすれば煩雑の感は否めないであろう。

道竅談 李涵虚(64)第八章 内薬と外薬

道竅談 李涵虚(64)第八章 内薬と外薬
地元は外丹であり、これをおこなうのは「人(体)」でなければならない。人元は内丹であり、性命の理である。これらはすべて「己」において行われる。
〈補注〉神仙道では天元、人元、地元との区分をすることがある。これは天仙、人仙、地仙と称されることもある。天元は内的なことを煉る悟りへの道である。地元は肉体を煉るもので健康長寿を求める道である。人元は心身の均衡を求める養生の道とされる。西派ではこれを「己」を煉るものとしており「煉己」と等しいものとみて、人元こそが性命双修を行う最も適切な道であるとしている。中国では古代の儒家はもっぱら社会倫理を追究して瞑想のような内的な修練に言及することはなかった。一方、道家は内的な修練を専らにして隠棲をすることを良しとした。これが十世紀のころから一つになってくる。それを代表するのが新儒学であるが、こうした傾向は神仙道でも見ることができるし、朱子や王陽明などの学派は往々にして禅や内丹の修行と区別がつかないと儒教の側から批判されることがある。

道竅談 李涵虚(63)第八章 内薬と外薬

道竅談 李涵虚(63)第八章 内薬と外薬
還丹の「還」とは「復」のことである。「兌宮の金」を採って、「乾宮の金」に「復」するのである。ここでの造化(つまり心身の変容)は先天の鼎の中にある。すべからく同類の陰陽を合わせて、はじめて成就を得ることができるのである。結丹を得れば内丹は完成する。還丹は外丹を用いるのであり、内丹は陰丹である。汞とは「陽の中の陰」である。外丹は陽丹であり、鉛とはつまり「陰の中の陽」である。
〈補注〉兌卦(陽陽陰)は「沢」を示すものとされ、これは「水」である坎卦(陰陽陰)の陰が塞がれたことで「沢」が生じたと解される。つまり腎を示す坎卦の陰が塞がれることで兌卦となったのであり、これはさらに陰が塞がれて乾卦となる勢いのあることを「『兌宮の金』を採って、『乾宮の金』に『復』する」として示しているのである。腎の「水」は人が大人になると精液として漏れるようになる。これを神仙道では「破体」と称する。つまり大人になって本来の心身の状態がおおいに崩れたと解するのである(これは排卵も同様)。神仙道は大人の体になるとは本来の体の状態が衰え、壊れたためと考える。そうであるから子供の頃の状態に戻すことを考えるわけである。

道竅談 李涵虚(62)第八章 内薬と外薬

道竅談 李涵虚(62)第八章 内薬と外薬
結丹の「結」とは「凝」のことである。彼の家の気を取って、我が家の気を「凝」とするのである。ここでの造化(つまり心身の変化)は後天の鼎の中にある。そうであるからこれは周天の火候を離れることがなければ、つまりは功を成就することができる。
〈補注〉西派では結丹と還丹の違いをいうが、一般的には結丹も還丹と同じように用いることが多いように思われる。それは多くの神仙道諸派ではあえて西派のいう結丹と還丹の区別をしないからである。「造化は後天の鼎の中にある」とは後天の世界、つまり物質界のことに留まるということであり、これは結丹を得ることで心身の健康が得られることをいっている。そして、それは小周転を実践することで得られると教えている。ちなみに小周転はイメージを使って督脈、任脈に「気」を通す方法のみをいうのではない。太極拳などを適切に煉れば小周転は自ずから生じている。

道竅談 李涵虚(61)第八章 内薬と外薬

道竅談 李涵虚(61)第八章 内薬と外薬
内丹を結ぼうとするのであれば、必ず先に鉛をもって汞を制しなければならない。ただこの鉛は還丹の鉛ではない。真汞は腎の中の真火である。外丹を煉ろうとするのであれば、必ず先に汞をもって鉛を迎えなければならない。この鉛は(腎に生ずる真鉛つまり)結丹の鉛ではない。先天の一気である。そうであるから結丹と還丹は同じではない。
〈補注〉「鉛」をもって「汞」を制するとは、心をして腎を制することである。腎は生命活動の象徴であり、この働きが適性を欠くことで過度の欲望が生まれると考える。腎の活動が適性を欠くのは心が不純であるからである。そうであるから心を純化することで腎も適切に働くようになるわけである。ここで「この鉛は還丹の鉛ではない」とあるのは、真に心身の変容をもたらす真鉛(あるいは真汞)ではないからである。「結丹」はいうなれば身心を整えることであり、主として後天の心身を整えるもので、本来的な心身の変容を促すまでには至っていない。「還丹」は心身の変容を促すもので先天の気と後天の気が融合することで果たされる。

道竅談 李涵虚(60)第八章 内薬と外薬

道竅談 李涵虚(60)第八章 内薬と外薬
「薬」とは何であろうか。「丹」とは何であろうか。内丹とは真汞である。己土(つちのと)であり、離の門に帰する。久しくこれを煉れば「妙霊の砂」となる。外丹とは真鉛である。戊土(つちのえ)であり、坎の戸に蔵されている。久しくこれを煉れば「美金の華」となる。
〈補注〉既に説明したように内丹は心に生まれるもので「性」に関係する。心(離卦 陽陰陽)の一陰が真汞である。外丹は腎に生まれるもので「命」に関係する。腎(坎卦 陰陽陰)の一陽が真鉛である。「美金の華」とは「金華」と称されるもので、坎離の合一したことを示している。「薬」も「丹」も共に変容を象徴するものに他ならない。一部に粒のようなものができると称する人もいるがそうではない。「薬」や「丹」ができたことは心身が整うことで「薬」を得たとされ、それが変容することで「丹」を得たことを知ることができるのである。

道竅談 李涵虚(59)第八章 内薬と外薬

道竅談 李涵虚(59)第八章 内薬と外薬
ここに(外薬を得て)後天の修行は終わる。それには「性」をして「命」を立てなければならない。つまり、そのためには必ず内薬をもとにしなければならないわけである。内薬を外薬を得るための「種」とするのである。この時の内薬は「シュ〈石朱〉の中の汞」であり、外薬は「水の中の鉛」である。また先に外薬を修して、内薬に及ぶこともある。この時の外薬は「丹母の気」であり、内薬は「聖人の胎」となる。ここに先天の修行は終わる。つまり内外の薬は共に重要であることを知らなければならない。
〈補注〉「シュの中の汞」とは心の一陰のことである。「水の中の鉛」とは腎の一陽である。「性」つまり心を鎮めることで腎が整う。これが内薬の働きである。腎が整うと心も安定する。これが外薬の働きである。先に心を鎮めて腎を安定させることもできるし、初めに腎を整えて心を安定させることも可能である。始めに腎を整える場合、外薬は「丹母の気」と称される。つまり腎の一陽が動いて(腎が整い活性化して)、初めて心の一陰も動く(心も鎮まる)からである。つまり「丹母の気(腎の一陽)」が動いて心(陽陰陽)に入ることで修行が完成に向かうわけである。ここに聖人となることのできる可能性が生まれるので、これを聖人が生まれる基盤「聖人の胎」という。

道竅談 李涵虚(58)第八章 内薬と外薬

道竅談 李涵虚(58)第八章 内薬と外薬
【本文】
内薬は「性」の悟りに必要なものである。
外薬は「命」の悟りに欠くことのできないものである。
修行者が「性」の修行を極めて「命」の修行に入ろうとするのであれば、必ず先に内薬を得てそれから外薬を得なければならない。この時の内薬は「半斤の汞」であり、外薬は「八両の鉛」である。また先に外薬を得ることで、内薬を得ることもできる。この時の外薬とは「腎の中の気」であり、内薬は「心の中の精」である。
〈補注〉先に内薬を得て後に外薬を得ることもできるし、先に外薬を得て後の内薬を得ることもできる。内薬は「心」で得られるものであり、心は離卦(陽陰陽)で示される。この一陰を「半斤の汞」という。一方、外薬は「腎」で得られるものであり、腎は坎卦(陰陽陰)で示される。この一陽が「八両の鉛」である。本来、心は「鉛」をもって表され、腎は「汞」を持って表される。そうであるから心の「半斤の汞」は腎に納まり、腎の「八両の鉛」は心へと向かうことになる。「半斤」は約300グラムで、「八両」とほぼ同じ重さとなる。これはこれらが同質のものであること、さらには「八」が陽を示す数字であるので、外薬(腎)に生まれるのが一陽であることを示している。

道竅談 李涵虚(57)第八章 内薬と外薬

道竅談 李涵虚(57)第八章 内薬と外薬
このように「静」と「柔」を得ることは武術における「内薬」と「外薬」を得ることとなる。以下にあるように西派では内薬、外薬のほかに内丹、外丹のあることが示唆される。この「丹」は静と動がひとつになったものが内丹であり、柔と剛がひとつになったのが外丹となる。ここにおいて形意拳、八卦掌、太極拳の区別は越えられることとなる。「丹」のレベルでは形意拳や八卦掌、太極拳などを通して自らの「性」や「命」が顕現して来ることになる。

道竅談 李涵虚(56)第八章 内薬と外薬

道竅談 李涵虚(56)第八章 内薬と外薬
「静」を得るには「動」があってはならない。そうであるから坐禅では結跏趺坐をとる。結跏趺坐は体を動かないように固定させる座法である。止観でも坐禅でも結跏趺坐あるいは半跏趺坐でなければならないとするのはこうした理由による。武術にあっては古い時代には馬歩の姿勢で動かないでいることで「静」を得ようとした。しかし、これでは「柔」を練ることはできなかった。「柔」を練るには「動」がなければならないからである。後に形意拳では三才式が考案された。三才式は半身の構えであり、それは「まさに動かんとしているところ」であり、三才式の「静」には「動」が含まれているわけである。形意拳ではこうして「静」に「動」を入れようとしたのである。八卦拳では上半身を「静」、そして歩法を行う下半身を「動」として心の「静」と体の「動」を同時に実現したが、それでも上半身と下半身での分離は残された。これを「ゆっくり動く」として「静」と「動」を同時に実現したのが太極拳であったのである。

道竅談 李涵虚(55)第八章 内薬と外薬

道竅談 李涵虚(55)第八章 内薬と外薬
太極拳において「綿綿不断」が重要であるのは、これを行うことで一定の集中を得ることができるからである。こうした「綿綿不断」の動きを見出したことは張三豊の大発明であった。例えば少林拳の動きをゆっくり行っても「綿綿不断」にはならないからである。どうしても技と技の間がうまくつながらない。太極拳の動きは技が極まらんとして極まらずに次の動きへと移行する。これがあることで「綿綿不断」が可能となる。技が極まらなければ力の集中が得られない。そうであれば攻撃力を養うことはできなくなってしまう。しかし一般の武術のように技を決めてしまうと動きに「断(絶)」が生じてしまう。この問題を「抽絲勁」によって解決し得たのが張三豊であったのである。

道竅談 李涵虚(54)第八章 内薬と外薬

道竅談 李涵虚(54)第八章 内薬と外薬
どのような動きでもゆっくりと動けば「静」と「柔」を得るための修行となりえるかというとそうではない。太極拳には「綿綿不断」の拳訣があるように、一定の途切れのない流れを持つ動きでなければ「静」と「柔」を共に生じさせることはできないのである。例えば形意拳の三才式は「静」を得るのには優れているが、「柔」においては困難がある。八卦拳の走圏は「柔」を得るには優れているが、「静」を得るのには難しい面がある。そうであるなら太極拳は形意拳や八卦拳に比べて優れているかというとそうとも言えず、太極拳は「静」においても「柔」においても共に不十分にしか得られないという難しさもあるのである。

道竅談 李涵虚(63)第八章 内薬と外薬

道竅談 李涵虚(63)第八章 内薬と外薬
還丹の「還」とは「復」のことである。「兌宮の金」を採って、「乾宮の金」に「復」するのである。ここでの造化(つまり心身の変容)は先天の鼎の中にある。すべからく同類の陰陽を合わせて、はじめて成就を得ることができるのである。結丹を得れば内丹は完成する。還丹は外丹を用いるのであり、内丹は陰丹である。汞とは「陽の中の陰」である。外丹は陽丹であり、鉛とはつまり「陰の中の陽」である。
〈補注〉兌卦(陽陽陰)は「沢」を示すものとされ、これは「水」である坎卦(陰陽陰)の陰が塞がれたことで「沢」が生じたと解される。つまり腎を示す坎卦の陰が塞がれることで兌卦となったのであり、これはさらに陰が塞がれて乾卦となる勢いのあることを「『兌宮の金』を採って、『乾宮の金』に『復』する」として示しているのである。腎の「水」は人が大人になると精液として漏れるようになる。これを神仙道では「破体」と称する。つまり大人になって本来の心身の状態がおおいに崩れたと解するのである(これは排卵も同様)。神仙道は大人の体になるとは本来の体の状態が衰え、壊れたためと考える。そうであるから子供の頃の状態に戻すことを考えるわけである。