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また両儀老人百物語は百話まで完結した後にリライトして発表する予定です。
李涵虚の著作も何らかのかたちでまとめて公開する予定にしています。

「煉丹修道」
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第九十二話 中国武術における拿法と打法(12)

第九十二話 中国武術における拿法と打法(12)
また蟷螂拳では最高の技術の精華とも称される六合短捶はほぼ形意拳の動きである。こうしたことからも蟷螂拳の核心部分に形意拳などのイスラム系統の武術があったことをうかがわせているのかもしれない。興味深いことに形意拳家の練る八卦掌では後ろの手が下がって行く傾向がある。これは「中心線を空ける」という形意拳本来の身法によるものと思われる。形意拳も伝承によっては中心線を守るような形に近づいているものもあるが、王樹金などの構えでは「中心線」は大きく空いている。個人的には形意拳では「開」の身法を、八卦掌では「合」の身法を練るのが良いのではないかと考えている。

第九十二話 中国武術における拿法と打法(11)

第九十二話 中国武術における拿法と打法(11)
本来の八極拳は相手を引き込んで打つことを基本としているが、猛虎硬爬山は相手が動かなかった時に引く力を利用して自分の体を突っ込むように移動させる。この手法が幾つか示されているのが猛虎硬爬山となる。これと似た技法に形意拳の狸猫上樹がある。狸猫(ベンガル山猫のこと)や虎は共にネコ科の動物で熊のように力の強いものではない。そうであるから彼らが「山」や「樹」を動かすことはできない。「硬」とは「ひたすらに」という意であるから猛虎硬爬山は「猛虎がひたすらに山に登ろうとする」とする様子を現すものと解することができる。つまりひたすら相手を掴もうとしているわけである。猛虎硬爬山は角度をいろいろに変えて、つまり死角を自分で作り出して相手を打つ方法が示されている。

第九十二話 中国武術における拿法と打法(10)

第九十二話 中国武術における拿法と打法(10)
秘宗拳では親指と中指、あるいは人差し指、またはこれら三本で掴む方法を採る。蟷螂拳でも三本指を使うのが主であるが二本指の門派もある。ただこうした柔らかな拿法では逃げられてしまうこともあるが、返し技を避けるためには仕方がないとする。当然のことに掴む手が外された場合の対処法もある。よくイスラム系の武術が「最強」とされるのは拿法を使うためと思われる。競技試合でも掴むことを禁じるのはそれがあまりに危険であるからに他ならない。李書文が鉄砂掌を煉っていないのに強い打ちを行えたとされるのは、おそらく掴む手法を用いていたためと思われる。得意技とされる猛虎硬爬山は相手を掴んでそれを引きながら体ごと体当たりをするような間合いで攻撃をするものである。

第九十二話 中国武術における拿法と打法(9)

第九十二話 中国武術における拿法と打法(9)
形意拳の劈拳では基本的には親指と四指とで挟むように掴むが、さらに上達すると挟む力は少なくても相手に吸い付くような使い方が可能になる。イスラム系統の武術として知られる湯瓶七式拳の「劈」はまさに拿法としての劈拳そのものである。こうしたことからも形意拳がイスラム武術に発するものであることが考えられる。相手を強く掴むと返し技を受ける危険も増す。拿法を使う武術には常にこの危険を考慮しなければならない。鷹爪拳や八極拳などは比較的固く掴む系統であるが、秘宗拳や蟷螂拳は柔らかく掴む系統といえよう。

第九十二話 中国武術における拿法と打法(8)

第九十二話 中国武術における拿法と打法(8)
形意拳の劈搴は、形意拳で最も重要とされる三体式でも練られる。詳細は省くが形意拳の基礎を養う三体式は五行拳のどれを使っても不適当ということはないが、唯一劈拳だけが使われるのはそれに意味があるからに他ならない。それは拿法の練習である。劈拳では初めの拳を打ち上げる動作で相手の攻撃を受けて、その腕を翻すことで相手の腕を絡めて重心を奪い、掌にて相手を掴むわけである。つまり形意拳の拿法は劈拳にあるのであり、ここをベースに全ての技法は展開される。そうであるから劈拳は最重要な技法なのである。つまり翻って言うならば形意拳においては拿法こそがその中核にあるということになる。

第九十二話 中国武術における拿法と打法(7)

第九十二話 中国武術における拿法と打法(7)
イスラム系統の武術の特色としては「動作が簡素であること」「一打一打に分かれていて連環性が強調されないこと」などがあげられる。そうしたことからすれば形意拳などもイスラム系統の武術であったことが想像される。イスラム系統の形意拳としては心意拳があり、形意拳はかつては心意拳と称していたとの伝承もあることからすれば、形意拳はイスラム系統の心意拳から漢族の中で練習されるようになって形意拳となったと考えらえよう。おそらくは漢族の中で練習されるようになって連環拳や四把捶のような連環した形式の套路が増やされたものと思われる。形意拳も相手を掴むことを想定すると劈拳の「位置」付けも見えてくる。劈搴は五行搴の中にあって唯一「掌」を用いる。それは劈拳が相手を掴むための練習であるためである。そのために劈拳だけは「掌」を用いて練る。

第九十二話 中国武術における拿法と打法(6)

第九十二話 中国武術における拿法と打法(6)
つまり拿法から打法への変化とは、相手を掴んでの特殊な攻防から一般的な打法を主とする拳術への変化であり、その過程で大八極は小八極となり、七星は秘門となって行ったと考えられるわけである。あるいはこれはイスラム族などの特殊な集団、あるいは小集団から漢族などの一般的な大集団に広まることで、「拳術」としての一般化が生じたということではなかろうか。八極拳も古くは把子拳と称されて五指を深く曲げる「拳」を使っていたという。これは相手を掴むための手形であることはいうまでもあるまい。それが現在のような普通の拳になったわけである。この手形の変化は相手を掴む特殊な「拳術」から一般的な拳術への移行と時を同じくしていたのではなかろうか。

第九十二話 中国武術における拿法と打法(5)

第九十二話 中国武術における拿法と打法(5)
このように小八極と大八極では「中心線」に関して大きな違いが見れるのであるが、それは七星と秘門においても同様に存している。七星では空いていた中心線を秘門(閉門)では堅固にガードするようになった。これをして一段の進歩と評されることがある。私見では、どうやら大八極、七星が先にあって後に小八極、秘門が生まれたのではないかと考えている。これは相手を掴む攻防からそれをあまり使わないいわゆる「拳術」的な攻防に変化したと思えるのである。蟷螂拳は多くの門派の技法を学んだ王朗が案出したとされるが、実は回族の武術にヒントを得ていたのではなかろうか。八極搴はもともと回族の中で生まれて、それが漢族にも広まったという経緯がある。こうした中で拿法が失われて、打法に重点が置かれるようになったのではないかと考えるのである。

第九十二話 中国武術における拿法と打法(4)

第九十二話 中国武術における拿法と打法(4)
相手を掴んで攻防を行うことを特徴として持つ武術に教門拳がある。教門拳とはイスラム族の間で練習されていた武術という意味で譚腿や八極拳、華拳、査拳などが知られている。譚腿でも八極拳でも中心線を空けての攻防が見られる。教門拳で有名であった韓慶堂は擒拿でも有名であったが、それは教門拳が本来相手を掴んで攻防を行うことを主とする武術であることに関係している。八極拳では小八極ではやや中心線をガードするような動作が見られるものの大八極ではそれが希薄であるようである。それは八極拳を代表する頂心肘で右腕では肘打ちをする一方で、左腕は小八極にあっては胸の前に構え、大八極では体の横に置くことでも明確であろう。

第九十二話 中国武術における拿法と打法(3)

第九十二話 中国武術における拿法と打法(3)
蟷螂拳は蟷螂が蝉を捉える動きを見て王朗なる人が考案されたといわれる。この技法は蟷螂捕蝉式と称され蟷螂拳を代表する構えとなっているわけであるが、これを発案した王朗はそれまで勝つことのできなかった少林拳を使う僧を打ち負かしたとされる。それは蟷螂拳において技術的な革新がなされたことを意味している。この蟷螂捕蝉式の何が革新的であったかとえば、それは相手を掴んで攻防を行うという手法であった。相手を掴んでの攻防においては中心線のガードにそれほど意を用いる必要がない。攻防の最初で相手を補足しているからである。また攻撃と相手を補足することで両手は塞がってしまっているという現実もある。一方、打ち合いだけを行うシステムであれば、常に中心線をガードしていなければならない。ボクシングなどでガードする腕が下がると疲労が限界に来ているサインとされるが、これほど中心線をガードすることは求められるわけである。一般的な拳術では相手を掴んで攻防を行うという発想はないので、蟷螂捕蝉式の発案はその意味でも革命的であったわけである。

第九十二話 中国武術における拿法と打法(2)

第九十二話 中国武術における拿法と打法(2)
さて、ここで考えてみたいのは漢族の武術を「打」法、回族の武術を「拿」法に優れたものとして、そのシステム(門派)の特徴を考えてみたいのである。たとえば漢族の中で伝承されて来た蟷螂拳であるが、それには拿法に優れた特徴を有している。回族の拿法を使うシステムにおいては「中心軸を空ける」という特色がある。これについては後に触れるが、伝統的とされる七星では中心軸のガードがやや甘く、革新的とされる秘門では固くなっている。それは秘門は「閉門」が本来であるとされていることでも分かろう。蟷螂拳で特徴として認められるのは「中心線を空ける構え」であり、こうした構えは通臂拳や形意拳を参考にしたとされる八歩蟷螂拳などでも顕著である(ここに述べる論旨から注意を促しておくなら通臂拳も形意拳もともに回族の武術と関係の深い門派ではある)。秘門は蟷螂搴の中でも細密な技法を用いることで知られているが、その「細密」とは中心軸を守る形での攻防が展開されるということでもある。ただ蟷螂搴を代表する構えである蟷螂捕蝉式が蟷螂が蝉を捉えるところから発案したとするのであれば、蟷螂の「斧」は体の左右の側面にあるのであるから、もともと「中心線」は空いていることになる。

第九十二話 中国武術における拿法と打法(7)

第九十二話 中国武術における拿法と打法(7)
イスラム系統の武術の特色としては「動作が簡素であること」「一打一打に分かれていて連環性が強調されないこと」などがあげられる。そうしたことからすれば形意拳などもイスラム系統の武術であったことが想像される。イスラム系統の形意拳としては心意拳があり、形意拳はかつては心意拳と称していたとの伝承もあることからすれば、形意拳はイスラム系統の心意拳から漢族の中で練習されるようになって形意拳となったと考えらえよう。おそらくは漢族の中で練習されるようになって連環拳や四把捶のような連環した形式の套路が増やされたものと思われる。形意拳も相手を掴むことを想定すると劈拳の「位置」付けも見えてくる。劈搴は五行搴の中にあって唯一「掌」を用いる。それは劈拳が相手を掴むための練習であるためである。そのために劈拳だけは「掌」を用いて練る。

第九十二話 中国武術における拿法と打法(1)

第九十二話 中国武術における拿法と打法(1)
中国武術は漢族(漢民族)を中心に確立されたものであるが、それだけではない。大きな影響を与えたものに回族(イスラム系)や満州族などがいる。回族では日本でもよく知られている八極拳や中国で広く青少年を中心として武術の基礎を習得するために練習される譚腿などがある。回族は清真寺というイスラム教の寺院を中心にまとまっており、しばしば漢族との対立が生じたようで、その中で育まれた武術は「最強」を謳われることが多い。また清代の支配民族であった満州族はモンゴル相撲に秀でており、呉家太極拳を考案した呉家は満州族で、投げ技をベースとした独特なシステムを構築している。武術を練習する者は民族云々には関係なく優れた技術があればそれを習いたいと思うもので、そうした中で漢族、回族、満州族などの武術は広い中国大陸の中にあっておおいに交流を持つことになる。

道竅談 李涵虚(102)第十一章 五関を煉る

道竅談 李涵虚(102)第十一章 五関を煉る
「煉神還虚」にはさらに上の層があって道と一体となることになる。神を(上丹田である)上院に移して、何もすることなく心も働かさない。そしてそのまま太虚と一体となる。あまねく大千世界を見渡し、こうして法身は円満となり、舎利は光に満ちて、自在の境地は極まることがない。つまり子々孫々、千変万化、ここに至って時に応じて功を立てることが可能となる。つまり身は(神々である)三清に帰して、道は(歴代の仙師である)九祖を超えるのである。
〈補注〉「煉神還虚」にはさらに上の層があるとする。それは「還虚合道」である。「法身」は先の「胎嬰」が育ったものである。これを「陽神」という場合もある。「舎利」は釈迦の遺骨のことであるが、中国や日本では宝石の粒がそれに見立てられた。ここでは丹田の光のようなもの先天真陽の一気の輝きと理解してよかろう。つまり先天の陽光が後天の穢れなく照り輝いている状態をいっている。「三清」は元始天尊、霊宝天尊、道徳天尊で神々のこと、「九祖」はで要するに歴代の仙人のことであり、そうしたものを崇める「迷信」を超えて完全に道と一体となることを言っているわけである。

道竅談 李涵虚(101)第十一章 五関を煉る

道竅談 李涵虚(101)第十一章 五関を煉る
「煉神了命」とは金液煉形の道である。鉛を帰して汞を制して胎嬰を結ぶのである。内には真火があり、赤々と長い虹のように輝いている。外には陰陽があって、日々増減をしている。つまり乾汞をして陽砂となすのである。
〈補注〉「煉神了命」は「胎嬰」を得ることとする。「乾汞」とは汞・腎の純陽(乾)のことで、この一陽を動かして、鉛・心の「陽陰陽」を純陽つまり「陽砂」とするのである。「胎嬰」とは周天の完成、離坎が乾坤となることをいう。この「胎嬰」は次に「法身」と育つことになる。北派では「陽神」と称することもあり、それを育てることの重要性を教える。神仙道では一度の「悟り=気づき」で良しとするのではなく、それを肉体、行動のレベルに落とし込むことができなければならないと考えるのである。

道竅談 李涵虚(100)第十一章 五関を煉る

道竅談 李涵虚(100)第十一章 五関を煉る
煉神の道に入れば三関がある。
一つは「煉神了性」であり、一つは「煉神了命」、一つは「煉神還虚」となる。
「煉神了性」とは玉液煉己の道である。鉛が汞を伏して丹基を結ぶのである。内には真火があり、綿綿として絶えることがない。外には子午抽添が行われて、次第に凝となる。つまり汞を烹て陰砂とするのである。
〈補注〉「煉神了性」は鉛(心)が汞(腎)を制することをいう。「真火」は心の一陽である。これは心を鎮めることで活性化することになる。「子午抽添」の「子午」は心と腎のことで、「抽」は心(陰陽陰)の一陽(真火)を抽(ぬ)くことであり、「添」は腎(陽陰陽)にこの一陽を添えることである。そうなると自然に集中状態が得られる(凝)。「陰砂」は純陰となることである。これにより心は「陽陰陽」から「陽陽陽」となり、腎は「陰陽陰」が「陰陰陰」となる。これにより乾坤(純陽、純陰)が生ずることになる。この乾坤・天地は大宇宙としての乾坤・天地と対応しており、ここに宇宙と一体となることが可能となるとする。

道竅談 李涵虚(99)第十一章 五関を煉る

道竅談 李涵虚(99)第十一章 五関を煉る
〈本文〉
丹法は煉精、煉気、煉神をして三関とする。そしてその修練を究めるのである。しかし、それだけではない。層次はそれだけではないのである。三つの関では階梯のすべてを尽くしていない憂いがある。今、試みにそれを述べてみよう。
首関は「煉精」で必ず(肉体である)鼎器を用いなければならない。(先天の気である)元黄と(後天の気である肉体を)合わせて交わりを持つのである。(太陽に住む烏である)金烏と化して飛び上がるのである。つまり「精が気と化する」わけである。
次の関は「煉気」で必ず(坎と離の交わりである)子午を明らかにし、坎の中の陽を抽出して、離の中の陰を補う。つまり「気が神と化する」のである。
築基と還丹のすべてはこれらの功法となる。特に薬物、炉鼎には大小があるが、それらは同じというわけではない。
〈補注〉煉精(化気)では肉体がベースとなる。精とは肉体のエネルギーのことである。それが先天の気と一体となる、つまり心が鎮まることで先天、後天の気の交流が生まれ始める。「金烏」とは太陽黒点のことで、太陽=陽の中の烏=陰とする。つまり陰陽の合一のことをいっている。金烏と共にいわれるのが玉兎でこれは月に住む兎、ということになる。
煉気(化神)は坎離の交わりとする。坎は「陰陽陰」で、離は「陽陰陽」となり、坎(腎)の一陽と、離(心)の一陰が交替することで坎は坤(陰陰陰=純陰)となり、離は乾(陽陽陽=純陽)となる。これは周天とも称される。

道竅談 李涵虚(98)第十一章 五関を煉る

道竅談 李涵虚(98)第十一章 五関を煉る
最後の「還虚」は套路を超える段階である。これは太極拳を煉ってきたのであれば八卦掌を煉ってみたりすることでなされる。等しく八卦掌でも「煉精」から「還虚」までを煉るわけである。このように「還虚」に至るには「精」と「博」のバランスが大切である。ひとつのことを掘り下げなければレベルは上がらない。しかしそれだけでは一定のレベルを超えることはできない。いろいろと学んでみなければならない。それが「博」である。よく小成、大成があるとされるが、小成は「精」の段階であり、大成は「博」の段階であるとすることも可能であろう。こうして本来の自分の心身の働きを悟るのである。

道竅談 李涵虚(97)第十一章 五関を煉る

道竅談 李涵虚(97)第十一章 五関を煉る
問題なのは套路を超えるということ(煉神)がどのようにして可能になるかという点であろう。それは「了命」から始められる。これは簡単にいうと足腰を強化して身体の安定を得ることがベースとなる。この場合は「上虚下実」でなければならない。必ずリラックスした状態で鍛錬がなされなければならないのである。こうした上半身を緊張させないゆったりとした鍛錬には時間がかかる。肉体のベースが出来たら「了性」で本来の自分の心と対話をして自分なりの動きを見出すようにする。それには套路のひとつひとつの動きを自分がどのように感じるかを知ることが大切である。これにより套路と感情がひとつになる。

道竅談 李涵虚(96)第十一章 五関を煉る

道竅談 李涵虚(96)第十一章 五関を煉る
そして最後の「煉神」では套路を超えて自在となることが可能となる。「還虚」というとひじょうに特殊なことのように感じられるかもしれないが、どのような武術でも形を覚える段階と試合などの自由に技を出し合う段階の練習とがある。本来は「試合」のレベルは自由な動きを導き出すためにあるのであるが、組織を守るために形の動きでなければ試合に勝つことができないようになっている場合が多い。これでは「試合」をする意味がないし、形に習熟する意味もなくなってしまう。そうなると「試合」に使える動きだけを練習した方が勝てるようになるからである。形の稽古はルールのある競技試合を前提としたのではその範囲を逸脱する部分が多すぎる。一定のルールや場所でないところで如何に攻防をするかを教えるものとして套路がある。また「試合」はあくまで「試み合う」程度のものでなければならない。

道竅談 李涵虚(95)第十一章 五関を煉る

道竅談 李涵虚(95)第十一章 五関を煉る
西派では「煉神」において「還虚」に至るまでに三つの段階があるとするわけであるが、これは武術の修行階梯を考える上ではひじょうに参考になる部分がある。これを「煉精」から見ていくと、「煉精」は肉体のレベルで第一の変容を迎える時となる。この変容は套路を覚えることでなされる。今まで行ったこともないような動きを新たにすることで心身の変容が促されるのである。次の「煉気」は気持ちが鎮まることである。套路に習熟することで気持ちが自然に鎮まるようになる。よく中国武術では「真伝」を得ることの重要性が説かれるが、それは心身が一定の集中状態に導かれるような套路でなければ心身の変容を促すことができないからである。

道竅談 李涵虚(94)第十一章 五関を煉る

道竅談 李涵虚(94)第十一章 五関を煉る
〈要点〉
一般的には煉精、煉気、煉神の段階があるとされるが西派では煉神はさらに「煉神了性」「煉神了命」「煉神還虚」に分かれるとする。つまり「煉神」の段階が「了性」「了命」「還虚」に分かれていると説くわけである。一般的には煉精(化気)、煉気(化神)、煉神(還虚)となるとするので、最後が「還虚」であることには変わりはない。これに加えて還虚合道や煉己を設けることもある。西派でも「還虚」の後にもう一段階(一層)があるとして「合道」のことに触れている。西派の修行の階梯は「煉神」の段階を三つに分けることで、内的な心身の変化を、それらがひと続きのものであり、またある種の変化の過程でもあることを示そうとしている。それは意図的なことを行うのではなく、ただ今の境地を味わい、楽しむことで自然に移り変わるものである。

道竅談 李涵虚(93)第十章 精、気、神を養う

道竅談 李涵虚(93)第十章 精、気、神を養う
すばらしい陶仙人(陶弘景)が言われたことに「内を知って外を知らないのでは、関竅を通すことはできない。外を収めて、内を収めないのでは根源を固めることはできない」と。これをよく体得することができれば、精、気、神が互いに相関係して養い合っていることの妙を知ることができるであろう。
〈補注〉後天と先天とは一つのものでこれを切り離すことはできない。「逆」の修行は後天と先天を分けて、後天から先天に入るとするが、「順」の修行は先天、後天がひとつになっている天地自然の状態そのままにして後天と先天のバランスを保とうとする。瞑想の修行は「逆」で、武術などは「順」の修行ということができようか。「逆」の修行はそれぞれの段階が明確であるが、「順」では必ずしもそうではない。長く修行をするには修行における楽しみを見出すまでが重要であるが、それまで継続できる動機を得るのに瞑想のような方法であれば「逆」が適切であるし、武術のような覚えることの多いものは「順」の方が良いであろう。修行の方法は自分自身の心身の状態に応じて選ぶのが良い。

道竅談 李涵虚(92)第十章 精、気、神を養う

道竅談 李涵虚(92)第十章 精、気、神を養う
液とはつまり気と化するということでもある。その後に河車を転ずる。さらに気が精を生じ、精が神を生じる理がある。これは「白雲上朝」と称する。甘露は下って、坎陽を導いて、離陰を滅する。
〈補注〉「逆」修における河車は精を煉って気と化し、さらに気を煉って神と化するのであるが、「順」修では河車を巡らせる前に既に下丹田では神と気、精が融合した状態となっている。そうであるから自然に河車は巡ることになる。太極拳などの武術の修行でも拳の修練によって神、気、精が融合していれば混元トウや瞑想をした時に河車を自ずから巡らせることができる。こうした状態で河車を巡らせると神や気、精が活性化される。「白雲上朝」とは白雲の上に昇るということで仙界(先天の世界)に入ることを意味している。「甘露」が下るとは先天の世界が開かれるということである。そうなると「腎=坎(陰陽陰)の一陽が開かれ、「心=離(陽陰陽)」の一陰が滅せられる。つまり「坎」は純陰となるのであり「離」は純陽となる。「乾坤」は天地を示すものであるから、ここに人体において天地(小宇宙)が完成して大宇宙たる天地と一体となる。

道竅談 李涵虚(91)第十章 精、気、神を養う

道竅談 李涵虚(91)第十章 精、気、神を養う
子気は心気である。内精は心精である。後天の培養の学は、外より内に入る。そうであるから先に外薬を修するのである。そうして内薬に至ることになる。また神を精と化し、精を気と化するの理がある。それは「絳宮化液」とされるもので、流れて元海に帰する。
〈補注〉既に触れたように「子気」は先天に属するものであり、また「内精」も同様である。そうであるから「内精」を「心精」とも称する。「神を精と化し、精を気と化する」とは、神と気、精が一体となるということである。そしてそれは元海(下丹田)に納まるとする。「絳宮」は中丹田で、ここで神と精が集まり、気と融合して「液化」して元海(下丹田)に納まることとする。これを「五気朝元」と称することもある。全身の気(この場合の「気」には神、気、精のすべてを含む)がひとつにまとまるということである。

道竅談 李涵虚(90)第十章 精、気、神を養う

道竅談 李涵虚(90)第十章 精、気、神を養う
おおよそ神と気が交わると自然に天精が生じるものである。この精は「天一の水」である。坎にあっては壬となる。これは母気ともいう。また外精とも称する。修行者は母気をして子気を養う。外精をして内精を補うのである。これは同類を求めての功(同類施功)である。
〈補注〉ここでは後天の「順」を修する道について述べている。そして神と気が交わると「天精」が生じるとする。「天精」は「天一の水」であり「壬(みずのえ・水の兄)」でもある。つまり坎(陰陽陰)の一陽のことをいうわけである(「一」は陽を現す)。またこれは「外精」であり「母気」でもあるとする。そして、これは「子気・内精」を養うという。「内精」とは先天の精(元精)である。ここで先天に入るのであるから、こうなると「順」も「逆」も同じといえよう。西派での「順」は儒教の静坐の修行法に近く、「逆」は神仙道で一般的なようである。

道竅談 李涵虚(89)第十章 精、気、神を養う

道竅談 李涵虚(89)第十章 精、気、神を養う
つまりこれは逆の道なのである。「逆」の道は精から始め、「順」の道は神から始める。これらにはそれぞれ求められるべき妙があり、互いに相反するものではない。「逆」を修して元精を開くには、先ずは(意識が乱れないようにする)凝神を行わなければならない。凝神をすれば(気が集まる)聚気となる。聚気となれば精が生じる。
〈補注〉元精とは先天の精のことである。「逆」修の道は煉精化気から始まり煉気化神となり煉神還虚と進むが、この段階で「虚」とあるのが先天に入るということである。そのため元精と「虚」とは同じ先天を意味することになる。そうであるから煉神化元精ということもできよう。そして煉元精化元気、煉元気化元神なる階梯を想定することも不可能ではないようにも思えるが、先天に属するこれらはすべて「虚」のものであるから、これを煉ったり、化したり、段階を設けたりすることはできないわけで「元精」に還った時点で「元気」「元神」も等しく開くことになる。また「順」を修する道では、後天と先天の区別をあまり重視することがない。

道竅談 李涵虚(88)第十章 精、気、神を養う

道竅談 李涵虚(88)第十章 精、気、神を養う
これは故意にできるものではない。「相手」に任せなけばならない。「相手」に任せることを「逆」といっているのである。精は気と化する。これは精が陰キョウ〈足へんに喬〉(会陰)にある時に逆に紫府(上丹田)に入れて、これを煉るのである。こうすれば精は化して気となる。気を神と化するには、気が陽炉(下丹田)にある時に逆に黄庭(中丹田)に入れて煉る。こうすれば気は化して神となる。
〈補注〉西派では「逆」の修行とは「相手」に任せることであるとする。これは意図的に気を巡らせるようなことはしないで、ただ上丹田や中丹田に気を置いておく(温養)だけにして自然に変化をするのを待つということである。「逆」の方法はこのように丹田を使うが、西派のように上丹田や中丹田を使うこともあれば、もっぱら下丹田だけで自然なる変容の生じるのを待つとする教えもある。精から気、そして神への変容は要は微細な感覚が育つということであるから、これは瞑想の深まりと共に自ずから得られるものではある。ただ問題は「どのようにして待つか」という点にある。「ひたすら温養をせよ」というだけではなかなか修行が続かない。そこで西派で提示されているようなある程度の達成感の得られるテクニックが考案されることになる。神仙道ではこうしたテクニックの開発と「本来あるべき修行の形」を唱えてそうしたものを否定することを繰り返してしている。

道竅談 李涵虚(87)第十章 精、気、神を養う

道竅談 李涵虚(87)第十章 精、気、神を養う
逆修の道を行えば、つまり精は化して気となり、気は化して神となる。また順修の道を行ったならば、神は気を生じ、気は精を生じさせることとなる。どうして逆修を行うのであろうか。それは神、気、精が本元(先天)から出て後天へと変じているからである。
〈補注〉神仙道の修行は「逆」修の道を行う。無為自然を唱える神仙道でなぜ「逆」をとるのか、はよく疑問視されるところである。これについては神、気、精が後天へと変じたものであることをあげている。神、気、精は先天の元神、元気、元精から後天の神、気、精へと変じていると考える。この先天の世界は「虚」であり、後天は「実」である。本来、人には虚実がそなわっているが、もっぱら「実」の世界にとらわれている。そうした生き方では適当ではなく、自然そのままの虚実をともに知る生き方が人としてあるべきであると教えるのである。

道竅談 李涵虚(86)第十章 精、気、神を養う

道竅談 李涵虚(86)第十章 精、気、神を養う
〈本文〉
心印経では「上薬の三品とは神と気、精であり、これは修煉を行う上での至宝である」とする。これらは互いに関係を持って活性化し、また変化もする。互いに関係し合っており、互いを養っている。特に修行者はこのことをよく知っておかなければならない。
〈補注〉「神」は意識のエネルギー、「気」は感情のエネルギー、「精」は肉体のエネルギーとされる。これらでは「神」が最も微細なエネルギーであり、「精」が最も粗大であるとされており、それぞれが別のエネルギーではないと考える。そうであるから「神」「気」「精」は人というコップの中で分かれて存しているものの、大きな豆(精)と、中くらいの豆(気)、細かな豆(神)が混入しているような状態となっているといえよう。そうであるからこれらは互いに密接に関係をしているのであり、精神と肉体を分けることなどはできない。心を上として肉体を制しようとすることは初めから無理なのである。

道竅談 李涵虚(85)第十章 精、気、神を養う

道竅談 李涵虚(85)第十章 精、気、神を養う
そして先天の境地が開かれたのが「神明」とされる段階である。西派ではこの境地を「元精(先天の精)」の得られた状態と説明する。ちなみに合気道では「勝速日」が開かれた境地と教える。太極拳も「神明」となると霊活となることができる。つまり自在な速い動きが可能となるということである.。ただ、この場合の「速さ」は間合いによって生み出される「速さ」であって物理的な速さでは必ずしもない。相手の意識の隙間を使っての「速さ」なのである。そうであるから「勝速日」の「日」は「霊(ひ)」でもあり、これが霊的なものであることを教えている。