古道131

神仙道と仏道(3)
釈迦が亡くなる時の旅の様子を示した経に「大パリニッバーナ経」がある。それには次のような言葉が残されている。
「修行者は、身体について身体を観察し、熱心によく気をつけて、この世における欲や憂いを除去していきなさい」(中村元『ブッダ最後の旅』)
これは以下、「心」について、「諸々の事象」についてと続くが、すべてよく対象となるものを「観察」するように教えている。この方法は太極拳や神仙道の瞑想である坐忘と同じである。神仙道には、特別な教えというものはない。そうであるからある派は老子や荘子の教えを中心としているし、ある派は儒教を、ある派は仏教を基盤としていることもある。

太上十三経注釈(341)老子 第二十五章
注釈では「混に生ずるとあるのは、終わりのないところに生まれる、ということである」とする。先天の世界(混)とは、「終わりのないところ」なのである。これが神仙道の「不老不死」につながるわけである。太古にあって神仙道は、不老不死を目指していた。しかし、それが不可能であることが分かって後も、「不老不死」を重要なものと考えていた。
神仙道ではある時期から「不老不死」の解釈におおきな変更が生じていたのである。不老不死は、後天の世界のことから、先天の世界のことに移ったのである。後天の世界では、不老不死はありえない。しかし、先天の世界には永遠なるものがある。それが生成の働きである。この働きを「不老不死」と捉えるわけである。もし、かりに完全に先天と後天が、一人の身体において合一したならば、そこには「不老不死」が生まれる。しかし、その人は肉体を維持することはできないで、羽化登仙してしまうことになる。