古道066

太上十三経注釈(276)老子 第二十一章
注釈には「恍や惚は性から生まれた物なのである。男が女に与える精は、一なる物である。これはまた二なるものと関係をしている」とある。ここでは正しい受胎は、恍惚感をもって行われる性行為がなければならないとする。恍惚感がなければ、男性の方に「一」なるもの、つまり「性(心の働きの根源となるもの)」がうまく女性に渡せない、というのである。この「一=性」は、女性の中で「命(体の働きの根源となるもの)」とひとつになる。これが「二」である。神仙道は、こうした自然の生成にならって修行をするのであるが、これはあくまで生成の象徴として語られることであり、房中術のようなことをして神仙道の修行がなされるということでは、けっしてない。

好相を見る
仏の顔を見るとされる好相(そうごう)の修行は、現在でも天台宗で行われているようである。好相では、仏を幻視するわけである。こうした「幻視」の修行はインドやチベットではよく行われている。そこでは本当に神仏が物質化して、自らの意志で動くようになるともいう。そして、この行でもっとも困難なのは、幻視した神仏を消すことにあると聞く。
天台宗では、仏の姿を幻視することに重点を置いているよであるが、こうした行で最も大切なことは、それを消す段階にある。幻視したものを消すことで、「空」を悟るわけである。仏教では、あらゆるものは滅んで形をなくすが、それを体験するには長い時間がかかる。そのため「幻視」という手段を用いるのである。「幻視」であれば、意識の用い方でそれを消すことはできる。
思うに天台宗の好相の行は、神道の影向(ようごう)に近いように思われる、影向は神を幻視することである。夢で神仏に出逢ったとする記録は平安、鎌倉あたりから散見する。