古道055

太上十三経注釈(265)老子 第二十一章
本文
孔徳の容はただ道たり。これ従うなり。道はこれ物たり。ただ恍、ただ惚にして、惚、恍たり。その中に象あり。恍、惚たり。その中に物あり。窈、冥たり。その中に精あり。その精は、はなはだ真たりて、その中に信あり。古より今に及ぶも、その名をはなれず。もって衆甫をけみす。吾、何をもって衆甫のしかるを知るや。これをもってなり。
〔「孔」とは空のことである。大ということである。至空、至大の徳の容器のことである。その中には妙なる物を容れることができる。つまり大道は、これに従って容器に入るのである。道は物的な存在であるが、恍や惚はそうではない。つまり、これは離性であり、無象とされているものなのである。ただ恍であったり、惚となったりすることは物的なことではないが、実際に生じていることではある。恍となったり、惚となったりすることは物的なことではないが、確かに存在していることではある。
あるいは惚であったり、恍であったりすることは象徴的なものであるとされ、恍であったり、惚となったりすることは物的なものであると言われるが、聖人はこれを転倒であるとしている。このことが、一般的にはまったく理解されていない。つまり転倒とは、道法が転倒していることを言っているわけである。惚や恍とは、性の本質を象徴するものである。恍や惚は性から生まれた物なのである。男が女に与える精は、一なる物である。これはまた二なるものと関係をしている。そうであるから初めに「象あり」とされていて、次に「物あり」とあり、そして「精あり」となっているのである。この言い方は、道法を象徴するものでもある。
つまり、精とは性の火なのである。下丹田が開くことで、この火は感じて生まれる。つまり、よく坎精を露にするものなのである。これは大変に微妙であり、なかなかその動きを予測することの難しいものでもある。そうであるから窈とか、冥とかいっているわけである。窈や冥の精は、つまりは真精である。真精を得ようと思うのであれば、真信ということを知らなければならない。つまり、そこには先ずは真信がなければならないのである。
その広々とした様子は、潮のようであり、その盛んな様子は、冰が溶けるようでもある。これを修する信を得る初めは、まさに精にあるのである。つまり、精を行動の中に捕らえるところで、信が得られるわけである。この時は、少しでも違えてはならない。
金仙には違いがあって、あるいは真金といわれるし、あるいは首経、または真水、または神水、そして真鉛や鉛気、白虎、虎気などとされるが、すべては真精のことである。そうであるから昔から今にいたるまで、この真精の名を、どの経典も記さないことはなかった。ここには、一物の真と、万物の理を見ることができる。これは、きわめて重要なことである。この始めの気をして、衆甫をみるとは、つまりは衆物の初めを知るということでる。そうであるから「吾、何をもって衆甫のしかるを知るや。これをもってなり」とあるわけである。
補注 この章では四つのことが挙げられているが、すべては一孔であり、玄関、大道であることを知っておかなければならない。鉛を得るとあるのは、丹を得ることなのである〕

太極拳の歌
中村幸一の『あふれるひかり』には「手をはらい敵を地に伏せたたかえば見えぬ敵おり太極拳
に」がある。作者は太極拳の講師もしているらしい。一人形である太極拳の動きに、相手の攻撃を払い、投げる技をイメージしている様子が歌われている。
現在は、かつてのように中国武術の専門誌が出されたりすることもないが、中国武術そのものの人口はけっして減ってはいないように思われる。むしろ、増えているのではなかろうか。八極拳や心意六合拳など「珍しい武術」に対する幻想が一段落して、着実な普及の時機に来ているように思われるのである。