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zoom RSS テーマ「外丹武学」のブログ記事

みんなの「外丹武学」ブログ

タイトル 日 時
古道364
陳微明の太極拳論(58) 【これが正しい法であることを知るのは「ホウ、リ、セイ、アン」の四字である。これらはすべて師から教えられる法である。少しもこれに違うことなく、日々練習をしていれば、自然に上下が協調して動けるようになるものである。一たび動き出すと、全身が協調して動けるようになるのである。そうなると、相手がひじょうに強い力で打ってきても、それを少しの力で受け流す、つまり「四両」ほどの少ない力で引いてきて、相手の大きな力である「千斤」をも動かすことができるようになるのである。 ...続きを見る

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2017/07/25 16:11
古道363
陳微明の太極拳論(57) 打手歌(打手を考えるに、これは推手のことである) ホウ、リ、セイ、アンが正しい法であることをよく体得して、上下が協調していると相手が入ってくることはできない。相手が強い力にまかせて打ってきたら、僅かな力でこれを制する。動きの中で相手を導き、バランスを失わせるのである。それには相手から離れることなく導いていかなければならない(ホウ、リセイ、アンはすべからく真と認め、上下相随すれば人は進み難かるべし。他の巨力に任せて我を打ちに来たれば、四両を牽動して千斤を発す。引進して... ...続きを見る

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2017/07/24 16:10
古道362
陳微明の太極拳論(56) 二十四、気は車輪のように働き、腰は車軸のように働く(気は車輪の如く、腰は車軸に似る) 【気を旗とし、腰をハタボコとするとは、気や腰が「静」であることを言っているのである。気は車輪の如くであり、腰は車軸のようであるとは、「動」く時のことである。腰は全身の中心である。腰が動けば、先天の気が車輪がまわるように動くのである。これがいわゆる「気が全身に及んで、少しも滞ることがない」ということである】 ...続きを見る

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2017/07/23 16:37
古道361
陳微明の太極拳論(55) 二十三、全身の意識は心にあるのであり、気にはない。気に意識があれば動きは滞ってしまう。気に意識があれば力を得ることはできない。気に意識がなければ純剛となる(全身の意は精神にありて、気にはあらず。気にあればすなわち滞り、気にあれば力なし。気になければ純剛たり) 【太極拳では「純」をして「神」を使うのであり、「気」や「力」を主とすることはない。ここでいう「気」とは後天の「気」や「力」のことである。そして養気の「気」とは、先天の「気」のことである。運気の「気」は後天の気で... ...続きを見る

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2017/07/22 16:37
古道360
陳微明の太極拳論(54) 二十二、歩法は猫のようであり、勁を運ぶのは糸を紡ぐようである(マン歩は猫の行くが如く、運勁は糸をひくが如し) 【これは「綿綿不断」のことを言っているのであり、機を待って勁を発することを述べているのである】 ...続きを見る

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2017/07/21 16:37
古道359
陳微明の太極拳論(53) 二十一、攻防のやり取りをするには、気を背中に集めて、背骨の中に入れなければならない。内には精神を統一して、外には何の乱れも見えないようにする(往来を牽動するは、気を背に貼り、背骨に斂入させ、内には精神を固めて、外に安逸を示すなり) 【これは相手との攻防の時のことを言っているのである。攻防を行う時には、「含胸抜背」とならなければならない。気を背中に集中させて、背骨の中に気を入れるのである。こうして機を待つわけである。機が至れば勁を発する。気を背中に集中させることができ... ...続きを見る

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2017/07/20 16:34
古道358
陳微明の太極拳論(52) 二十、よく覚えておかなければならないのは一動すれば全身が動くということであり、一静すれば全てが静を得るということである(切に記す「一動すれば動かざることあることなく、一静すれば静ならざることあるなし」と) 【内外がともに協調して、上下も共に協調する。そうすればこうしたことができるようになる】 ...続きを見る

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2017/07/19 15:23
古道357
陳微明の太極拳論(51) 十九、また心は先にあって、その後に身があるのである。腹にはよけいな力を入れることなく、気は骨に浸透して、神はゆるやかで、体は静かとなる。そうして心と体が一瞬でも離れることがないようになる(また曰く。先に心あり、後に身ある。腹はショウ浄なれば、気はおさまりて骨に入る。神は舒にして、体は静かなれば、刻々に心ある) 【太極拳は心意をベースとして動くのである。身体はそれを受けて動くわけである。これはいわゆる「意気を君主として、骨肉は臣下である」とされるところのものである。腹... ...続きを見る

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2017/07/18 15:23
古道356
陳微明の太極拳論(50) 十八、先に大きく開き、その後に緻密さを求める。こうすることで微細な動きが可能となるのである(先に展開を求め、後に緊ソウを求める。よってシン密にいたる) 【套路を練るにしても、推手を練るにしても、すべて先に展開を求めるべきである。展開とはつまり腰や足を共によく動かすとことである。そうすることで功を正しく養う(純熟)ことができる。その後に緊ソウを求める。これは大きな圏を、小さな圏へと収めることである。そして小さな圏から無圏へと至るようにする。これが(中庸を説明される)と... ...続きを見る

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2017/07/17 15:23
古道355
陳微明の太極拳論(49) 十七、心で指令を発し、気がそれを導き、腰で行うのである(心で令を為し、気を旗と為して、腰をハタボコと為す) 【心は命令を発する中心となる。気はそれを具体的にする旗となり、腰でそれを実行するのである。気は中正で心にも体にも偏ることなく、無敗の境地にあるのである】 ...続きを見る

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2017/07/16 15:23
古道354
陳微明の太極拳論(48) 十六、気は「直」をして養うと害が無い。勁は「曲」をして蓄えるとおおいに蓄えることができる(気は直を以て養えば害なし。勁は曲を以て蓄えれば余り有り) 【孟子は「わたしはよく公然の気を養うことができる」と述べている。公然の気は「至大至剛」であり、「直」をして気を養えば、害がなく、その気は天地の間に広がることになる。太極拳では先天の気を養うのであり、後天の気を養うのではない。後天の運気の功は往々にして害を生みやすい。先天の養気は「順」でなければならず、自然でなければならな... ...続きを見る

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2017/07/15 15:22
古道353
陳微明の太極拳論(47) 十五、柔軟を極めた、その後で堅剛を極めるのである。呼吸が整っていれば、滞りなく速く動く(霊活)ことが可能となる(柔軟を極め、しかる後に堅剛を極める。よく呼吸をすれば、しかる後によく霊活たる) 【老子は「天下の至柔は、天下の堅剛を走らせる」といっている。この「至柔」とはつまりは「至剛」でもある。吸とは「提」であり「収」でもある。呼とは「沈」であり「放」でもある。ここでの「呼吸」とは先天の呼吸のことであって、後天の呼吸のことではない。そうであるから相手のバランスを崩し(... ...続きを見る

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2017/07/14 18:17
古道352
陳微明の太極拳論(46) 十四、往ったり来たりの動きは、折れ曲がているようであるが途切れることがない。進退も転換するので途切れることがないのである(往復はすべからく折畳するがごとく、進退はすべからく転換あるべし) 【「折畳」とは虚実の変化のことである。その変化は、きわめて微細でなければならない。太極拳で相手の勁を裁つ(截勁)のを行う場合には、だいたいにおいて「折畳」を用いるのである。外的には勁が裁たれていないようであっても、内実はすでに「折畳」になっているのである。進退には歩法を変化させなけ... ...続きを見る

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2017/07/13 18:16
古道351
陳微明の太極拳論(45) 十三、収めるのと発するのは同じである。放つのと収めるのも同じである。断つのと連なるのもまた同じである(収めるはすなわちこれ発するなり。放つはすなわちこれ収めるなり。断ちてまた連なるなり) 【粘、化、打のはそれぞれに「意味があるが、これを分けることはできない。「収」とはつまり粘、化のことである。「放」とはつまりは打のことである。相手を打つ時に、こちらの勁は断たれてしまうようにも見えるが、その意識においては途切れるることはないのである】 ...続きを見る

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2017/07/12 18:16
古道350
陳微明の太極拳論(44) 十二、力は背中から発せられるものであり」、歩法は身法によって変化をするものである(力は背によりて発し、歩は身に随いて換わる) 【含胸抜背で、勢いを蓄える。勁を発する時には、その力は背中を働かせることで得られるのであって、腕の力によるのではない。身法が変化をすれば歩法も変化をする。それは転換すること限りがない】 ...続きを見る

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2017/07/11 18:16
古道349
陳微明の太極拳論(43) 十一、曲がっている中に真直ぐな部分を求める。勁は蓄えた後に発する(曲中に直を求め、蓄えた後に発す) 【曲とは相手の勁を化するということである。勁がすでに発せられたならば、相手の体に向かって一直線に発せられるのである】 ...続きを見る

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2017/07/10 18:15
古道348
陳微明の太極拳論(42) 十、勁を蓄えるのは弓を張るようである。勁を発するのは箭を放つようである(蓄勁は弓を張るが如く、発勁は箭を放つが如し) 【勁を蓄えるのが弓を張るようであるとは、その力の満ちることを言っている。勁を発するのが箭を放つようであるとは、その速いことを言っているのである】 ...続きを見る

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2017/07/09 18:15
古道347
陳微明の太極拳論(41) 九、静かであるのは山のよう。動くのは大河のようである(静なるは山岳の如く、動くは江河のごとし) 【静かなのは山のようであるとは、気が沈んで浮くことのないことである。勁とは大河のようであって、周流して止むことがない】 ...続きを見る

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2017/07/08 18:15
古道346
陳微明の太極拳論(40) 八、形はウサギを捉まえようとするハヤブサのようであり、意識はネズミを捉えようとする猫のようである(形は兎を捕らえんとするはやぶさの如く、神は鼠を捕らんとする猫の如し) 【ウサギを捕らえようとするハヤブサは、旋回して止まることがない。ネズミを捕らえようとする猫は、機を待って動くものである】 ...続きを見る

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2017/07/07 18:14
古道345
陳微明の太極拳論(39) 七、勁を運ぶのは、おおいに鋼を鍛錬するようなものである。これを破ることなどできるものではない(運勁は百煉の鋼の如し。なんぞ堅くしてくだかざるなし) 【太極拳では力を使わないが、それはどのような場合でも内勁を養い、使っているからである。その勁は百煉の鋼のようで、あらゆるものを粉砕してしまうのである】 ...続きを見る

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2017/07/06 18:14
古道344
陳微明の太極拳論(38) 六、気を動かすのは九つの連なっている珠のようであり、あらゆるところに到ることができるのである(行気は九曲の珠の如く、すこしも到らざるなし) 【「九曲の珠」とは、円活であるということである。四肢全身を円珠とするわけである。つまり、全身が太極の円となるということである。そうであるから相手の力を化せないところはないのである】 ...続きを見る

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2017/07/05 18:39
古道343
陳微明の太極拳論(37) 五、体を立てるのは偏ることなく、リラックスしていなければならない。こうして安定を得るのである(立身はすべからく中正、安舒して、八面をトウ支すべし) 【「頂頭を懸ける」とは、自然に中正となっている、ということである。「ショウ浄」とは、自然に静かな心でリラックスしている「安舒」となっていることである。泰山のような安定を得るのであるが、それは自然にあらゆる方向(八面)に注意が向いていることでもある】 ...続きを見る

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2017/07/04 18:38
古道342
陳微明の太極拳論(36) 四、発勁をしようとするならば沈着でありショウ浄でなければならなず、一つの方向に力を集中させなければならない(発勁はすべからく沈着、ショウ浄たるべく、専ら一方を主とすべし) 【発勁の時には、必ず全身によけいな力の入らない「シォウ浄」でなければならない。「ショウ浄」でなければ、気を沈着させることはできない。沈着、ショウ浄であれば、自然に遠くまで勁を放つことができる。「一つの方向に力を集中させなければならない」とは、相手の動きの方向に随って、勁を放つということである。相手... ...続きを見る

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2017/07/03 18:38
古道341
陳微明の太極拳論(35) 三、意や気はともに滞りなく動けなければならない。それは円活に動くことの妙を得ることであり、つまりは「虚実を変転させる」ということなのである(意気はすべからく換わりて霊を得べし。よって円活の妙ある。いわゆる「虚実を変転す」なり) 【相手に粘を使う時には、その変化の機に応じて、こちらの意も変化をしなければならない。これはつまりは虚実の変化を明らかに行うということである。そうすると自然に円活の妙というものも出てくるのである】 ...続きを見る

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2017/07/02 18:38
古道340
陳微明の太極拳論(34) 二、精神がよく活動したならば、少しも動きにおいて遅れをとるといったことは無くなる。これがつまりは「頂頭を懸ける」ということである(精神はよく提して起きるを得るべかれば、すなわち遅重のおそれなし。いわゆる「頂頭を懸ける」なり) 【「虚霊頂勁」という言葉がある。これはつまり精神が自然に活性化する、ということである。精神が活性化すれば、体もまた自然に軽霊となる。これで分かるように、精神の働きを使わないで、むやみな力を使うと、必ず体は力によって使われることになる。そうなると... ...続きを見る

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2017/07/01 18:37
古道339
陳微明の太極拳論(33) 十三勢行功心解 一、心で気を動かす場合には、沈着でなければならない。沈着であれば気は骨の中に沁みとおることになる。気を全身に運ぶ場合には、本来の動きに違うようではいけない。本来の動きのままであれば、つまりは心のままに気は動くのである(心をもって気をめぐらせるは、務めて沈着たるべし。よって、よく収斂して骨に入るなり。気をもって身に運ぶは、務めて順遂せしむべし。よって、よく従心に便利たり) 【「心で気を動かす」とは、つまりは「意は気の到るところに行くものである」という... ...続きを見る

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2017/06/30 18:37
古道338
陳微明の太極拳論(32) 十九、ここに示したことはそれぞれ重要なことである。一字も余分なことはない。よく智慧がなければ、これを悟ることはできないであろう。先師はこうしたことを軽々に伝えることはなかった。適切な人でなければ、おそらくは正しくこれを練ることはできないであろうからである(この論、句句切要たり。ならびに一字も敷衍陪シンすることなし。つとに慧あらざるは、悟るあたわざるなり。先師妄伝するを肯ぜず。独り人を選ぶにあらざれば、また恐らくは工夫を枉費せんのみ) 【太極拳の精緻奥妙は、すべてこの... ...続きを見る

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2017/06/29 21:25
古道337
陳微明の太極拳論(31) 十八、こうしたことを、少しの差ではあるが、誤りははなはだ大きい、というのである。学ぶ者はこうしたことを精しく知らなければならない(これを差の毫里なるも、謬りもって千里とす、という。学ぶ者、詳らかに弁ぜざるべからず) 【太極拳は、相手と粘をして動くのである。つまり密接に粘がなされていれば、相手の動きに応じることができるわけである。これが「少しの差」もないという状態である。しかし、少しでも粘から離れることがあれば、相手をコントロールする機会を失ってしまうことになるのであ... ...続きを見る

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2017/06/28 21:25
古道336
陳微明の太極拳論(30) 十七、もっとも重要なことは「自分を捨てて相手に従う」ことであるが、多くの人は自分にこれを求めることなく、どこか遠いところに求めようとする(本これ己を捨てて人に従うなるも、多くは誤りて近きを捨てて、遠くに求める) 【太極拳は、自分で動くということはない。どのような場合であっても、相手の動きによって動くのである。相手が動けば、必ず一定の方向性が出てくるものである。こちらはそれに従って動くのであって、少しも抵抗することがないのである。こうなると相手は体勢を崩されてしまった... ...続きを見る

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2017/06/27 21:24
古道335
陳微明の太極拳論(29) 十六、トウ勁の後に、さらに練習を重ねれば、さらに精通することとなる。ただ黙々と練習をすると、次第に心のままに動くことができるようになる(トウ勁の後、愈々練れば、愈々精し。黙識タン摩すれば、ようやく心の欲するところに従うに至る) 【勁の働きが体得できた(トウ勁)後に、はじめて太極拳の門に入れたということができるようになるのである。こうなると途切れることなく、必ず日々練習をしなければならない。何時何処も練習をしていれば、悟るところがあろう。相手の心を読む(黙識)ことも可... ...続きを見る

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2017/06/26 21:24
古道334
陳微明の太極拳論(28) 十五、もし、双重を避けようとするならば、陰陽をよく知らなければならない。粘であれば走をすることができる。走ができれば、つまり粘となっている。陰は陽を離れることなく、陽は陰を離れることはない。陰陽がともに関係し合う。これで勁の動きを悟る(トウ勁)ことができるのである(もし、この病を逃れんと欲せば、すべからく陰陽を知るべし。粘なればすなわちこれ走り、走ればすなわちこれ粘たり。陰は陽を離れず。陽は陰を離れざる。陰陽相済して、まさにトウ勁をなす) 【もし、双重の病を避けよう... ...続きを見る

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2017/06/25 21:23
古道333
陳微明の太極拳論(27)  十四、何年も純粋な功を積んでいるのに、相手の力を化すことができず、相手に制せられるのは、双重の病について、よく分かっていないからである(数年の純功を見るといえども、運化する能わず、自らしたがいて人のために制せられるは、双重の病をいまだ悟らざるのみなり) 【数年にわたって純功を積んだとしても、まだ双重の病があれば、時に相手に制せられることを免れることはできないし、その力を化すことも不可能である】 ...続きを見る

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2017/06/24 21:23
古道332
陳微明の太極拳論(26) 十三、相対した一方の体が沈んでいれば、相手の動きを離さないでいることができる。共に動けないでいれば、動きは滞ってしまう(偏り沈めば、すなわち随う。双重となれば、すなわち滞る) 【「一方が沈んでいれば、相手の動きを離さないでいることができる」「共に動けないでいれば、動きは滞ってしまう」とは、どういうことであろうか。互いに粘をして対している時、その力が同じで、交えた手で押し合って動けないでいる。これが「双重」である。「双重」とは、二人が互いに押し合うことである。この時に... ...続きを見る

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2017/06/23 21:23
古道331
陳微明の太極拳論(25) 十二、立つのは平らかにして、動くのは車輪のように動く(立つは平准の如く、活くるは車輪の如し) 【「平准」に立つとは「虚霊頂勁」となることである。動く時に「車輪」のようであるとは、腰を中心にして全身が腰の円転する動きに協調しているということである】 ...続きを見る

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2017/06/22 21:22
古道330
陳微明の太極拳論(24) 十一、四両の力で、千斤の重さを飛ばすという一句は、太極拳が、明らかに力によるものではないことを示している。年老い衰えた人が、多人数を御する場合にも、動きの速さによるのではないのである(四両、千斤を発するの句をつまびらかにするは、非力の勝るを顕かにす。ボウテツよく衆を御するの形を観るに、快なんぞよく為さん) 【太極拳の巧妙さは「四両、千斤を抜(は)っする」にある。相手が千斤〔600キロ〕の力を使っている場合にも、こちらが粘で相手をとらえることができていれば、その力を使... ...続きを見る

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2017/06/21 21:22
古道329
陳微明の太極拳論(23) 十、こうした太極拳の技に似た不十分なものを教える流派は実に多いものである。それらは勢いに違いがあるが、往々にして強そうなものが良く見えるものである。また速く動くものが良く思われたりもする。力が強ければ弱い相手を打つことができるし、速い技ができればゆっくりとした技を破ることが可能である。こうしとはもって生まれた能力によるもので、修練の結として果得られたものではない(この技は旁門はなはだ多し。勢に区別あるといえども、概して壮きは弱きを欺くにほかならず。慢は快に譲るのみ。力... ...続きを見る

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2017/06/20 21:15
古道328
陳微明の太極拳論(22) 九、少しもよけいな力を加えることなく、蠅もその動きをとらえられて身動きすることもできない。相手には、こちらの動きを知られることがなく、自分だけが相手の動きをとらえている。優れた境地に達している者が無敵であるのは、ここで述べられているようなことによるのである(一羽も加えるあたわず。蠅虫も落ちるあたわず。人、我を知らず。我、独り人を知る。英雄の向かうところ敵なし。ことごとくこれによりて及ぶなり) 【一つの羽も加えることがなく、蠅も落ちることがない、とは少しも抵抗すること... ...続きを見る

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2017/06/19 17:24
古道327
陳微明の太極拳論(21) 八、高く導こうとする時には限りなく高くなり、低く導こうとする時には限りなく低くなる。前に出ても限りがないし、退いてもそれを捕らえることはできない(これを仰げばすなわちいよいよ高く、これを俯すればいよいよ深し。これ進めばすなわちいよいよ長く、これ退けばすなわちいよいよせまる) 【相手は自分が上に導かれると、それが限りなく高いように感じる。それは天が限りなく高いようなものである。相手は自分が下に導かれると、限りなく低くまで行くように感じる。それは深い淵のそばでその深さに... ...続きを見る

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2017/06/18 17:24
古道326
陳微明の太極拳論(20) 七、相手が左に重心を置けば、こちらの左は虚となり、相手が右に重心を置けば、こちらの右の働きは相手に見えなくなる(左重ければすなわち左は虚たり、右重ければすなわち右杳たり) 【ここで述べられているのは、突然に見えなくなったり現れたりすることの解釈である。相手と粘をもって手を交えている時に、相手の重心が左のあたりにあると思ったならば、相手に接しているこちらの左側は虚に変ずることとなる。右側でもこれは同様である。「杳」とは捉えることが難しいという意味である。相手と粘をもっ... ...続きを見る

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2017/06/17 17:24
古道325
陳微明の太極拳論(19) 六、無心になることで勁は発せられる。気は丹田に沈み、偏ることもなく、突然に見えなくなったり、突然に現れたりする(虚霊は勁を頂き、気は丹田に沈み、偏らず椅(よ)らず、忽ち隠れ忽ち現る) 【套路を練るにしても、推手を練るにしても、すべては無心(虚霊)によって勁は発せられなければならないのである。気は丹田に沈んでいなければならないのである。偏ることなく、体を真直ぐに立て(立身中正)て、前後左右によらないようにする。突然に見えなくなったり、現れたりするとは虚実が自在に変化を... ...続きを見る

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2017/06/16 17:23
古道324
陳微明の太極拳論(18) 五、相手が速く動けば、こちらも速く対応する。ゆっくりであればゆっくりと対応する。どのような変化であっても、ただ一つの原理で対応することができるのである(動き急なればすなわち急に応ず。動き緩やかなればすなわち緩やかに随う。変化万端といえども、ただ性は一貫たり) 【こちらの緩急は、相手の緩急に応じて決まるのであり、あるがままに粘り途切れることがないのである。もし、両肩を柔らかく動かして、少しもよけいな力が入らないようにしなければ、適切に相手の動きに随うことはできないもの... ...続きを見る

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2017/06/15 17:23
古道323
陳微明の太極拳論(17) 四、相手が剛で、こちらが柔となるのが「走」である。相手がこちらの調子に合わせないようにしても、こちらはその動きを離すことがないのが「粘」である(人剛にして我柔これを柔と謂う。我順にして人背くこれを粘と謂う) 【相手が剛である時に、こちらも剛であれば、互いに抵抗し合うことになる。相手が剛でこちらが柔であれば、剛の動きを柔は妨げることはない。妨げることがないから相手の動きを導く「走」が可能となるのである。相手の力を導いている中で、相手がそれから逃れようとするのが「背」で... ...続きを見る

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2017/06/14 17:23
古道322
陳微明の太極拳論(16) 三、行き過ぎた動きも、足りない動きもなく、相手が屈すれば、こちらは伸びるのである(過ぎて及ばざることなく、屈するに随いてすなわち伸びる) 【これは相手と粘って接する時に、相手が動けばこちらも動くし、相手が引けばこちらは出る、相手が出ればこちらは引く、といった離れることのない働きのことを言っているのである。相手から離れることも、相手に抵抗することもないようにすることで、少しの過不足も動きに生じないようにするわけである】 ...続きを見る

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2017/06/13 17:22
古道321
陳微明の太極拳論(15) 太極拳論註 その2 一、太極は無極から生まれたもので、陰陽の母である(太極は無極に生まれ、陰陽の母なり) 【陰陽は太極から生まれたものである。太極は無極を本としている。太極拳は、それぞれの動きが虚実、陰陽でできている。そうであるから「太極」というのである】   二、太極は動けば分かれ、静かであれば合わさる(これ動けばすなわち涌かれ、これ静かなればすなわち合う) 【自分の体が動いていない時には渾然とした一太極であるが、少しでも動くと、つまりは陰陽に分... ...続きを見る

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2017/06/12 17:17
古道320
陳微明の太極拳論(14) 十、長拳は長江大河のように滔々として絶えることのないものである(長拳は長江大海の如くして、滔々と絶えざるなり) 【太極拳は別に長拳ともいわれる。楊氏の伝えているのは太極拳があり、また長拳というものもある。名前は違っているが、内実は同じである。 十三勢において「ホウ、リ、セイ、按、採、レツ、肘、靠」は八卦である。「進歩、退歩、右顧、左眄、中定」は五行である。「ホウ、リ、セイ、按」はつまり「坎、離、震、兌」の正四方なのである。「採、レツ、肘、靠」はつまり「乾、坤、&#... ...続きを見る

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2017/06/11 16:15
古道319
陳微明の太極拳論(13) 全身の各部位が協調すると、各部位の区別はなくなってしまう。体の各部位の区別がなくなってひとつになってしまえば、相手に体の一部を取られて引かれても、泰山の如くに動くことはない。体の各部位の区別がなくなって、ひとつになることもあるが、それぞれの部位を分けて使う時もある。各部位をひとつにして使っても、別にして使っても協調していることに変わりはない。別に使う時には「常山の蛇」のようになるのである。つまり首を打てば尾がそれに応じて動き、尾を打てばそれに応じて首が動く。背中を打て... ...続きを見る

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2017/06/10 19:11
古道318
陳微明の太極拳論(12) 九、虚実は明らかに区別しなければならない。ひとつのところには一つの虚実がある。いろいろなところの虚実が集まって、全体としての虚実もできているのである。もし、全身の協調が完璧であれば、すこしも虚実の変転が途切れることはない(虚実はよろしく清楚に分けるべし。一処には自ずから一処の虚実あり、処処はすべてこれ一虚実たり。周身節節、貫串すれば、糸毫も間断あらしめること無かるのみ) 【套路を練る時にはよく虚実を分けなければならない。人と手を交える時にも、またよく虚実は分けられな... ...続きを見る

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2017/06/09 19:10
古道317
陳微明の太極拳論(11) 八、上に動こうと思うならば、つまりは下を意識しなければならない。たとえば、物を持ち上げようとした場合、どうしたらその力を挫くことができるであろうか。それは根を断つのである。そうすれば力が働かなくなることは明らかである(意、上に向かうを要するがごときは、すなわち下に意をよせるべし。もし、まさに物あげ起こさんとして、もってこれを挫くの力を加えんとするは、これその根、断たれるによる。すなわちこれ壊るること速やかにして疑いなし) 【ここで言われているのは、人と手を交える時の... ...続きを見る

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2017/06/08 19:09
古道316
陳微明の太極拳論(10) 七、上下でも、前後でも、左右でもそうであるが、すべて意によって動くのであり、体が先に動くのではない。上を意識すれば、下も意識することとなる。前を意識すれば、後ろを意識することになる。左を意識すれば右を意識することとなるのである(上下前後左右は皆しかり。およそこれ皆、意たりて、外面にあらず。上あれば、すなわち下あり。前あれば、すなわち後ろあり。左有れば、すなわち右あるなり) 【上に動こうと思う。下に動こうと思う。前に動こうと思う。後ろに動こうと思う。左に動こうと思う。... ...続きを見る

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2017/06/07 19:08
古道315
陳微明の太極拳論(9) 六、機を得ることなく、勢いを得ることもなければ、動きは乱れてしまうのであって、その原因は腰や下腿、大腿に求めれれるべきである(機を得ず、勢を得ざるところあるは、身すなわち散乱す。その病は必ず腰腿にこれを求むべし) 【機会をつかむことができない。勢いを得ることができない。これらは必ず腰や下腿、大腿が適切に動いていないからである。そうなると、手にはますますよけいな力が入ることとなる。そして全身の動きがますます乱れてしまうのである。そうであるから力を発することができなければ... ...続きを見る

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2017/06/06 19:11
古道314
陳微明の太極拳論(8) 五、動きの根本は足にある。その力は下腿から大腿へと伝わり、腰が中心となって、手の動きとなる。足から下腿、大腿そして腰、これらがすべて一つになって動くと、前に進んでも、後ろに退いても、機を得て動けて、力が失われることもない(その根は脚にあり、腿に発する。腰を主宰とし、手指に形す。脚よりしかして腿、しかして腰、総てすべからく完整一気たるべければ、前に向い後ろに退くに、よって機を得て、勢を得る) 【荘子は「至人の呼吸は踵で行う」と述べている。太極拳では、呼吸は深く長く、上は... ...続きを見る

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2017/06/05 19:10
古道313
陳微明の太極拳論(7) 三、気は活性化して、神は鎮められるべきである(気はよろしく鼓騰すべく、神はよろしく内斂すべし) 【気が活性化すれば動きが途切れることはない。神が鎮められれば気持ちが乱れることもない】   四、こうして動作の滞りを無くして、途切れるところが無いようにするのである(凸凹するところ有らしめること無く、断続するところ有らしめること無かれ) 【動作に乱れがあれば、そこで動きが途切れたり、続いたりすることとなる。これは全ていまだ円満な動きに至っていないからである。... ...続きを見る

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2017/06/04 19:09
古道312
陳微明の太極拳論(6) 太極拳論註 一、全身が協調して動くためには、全身が軽霊でなければならない(一挙に動くは、周身ともに軽霊たるを要す)。 【後天の拙力を用いないということである。つまり全身が自然で軽やかであるということである】   二、そのためには全てが一連なりでなければならない(もっともすべからく貫串たるべし) 【「貫串」とは綿綿不断ということである。貫くことがなければ途切れてしまう。途切れてしまえば、人はその虚に乗じて攻めて来る】 ...続きを見る

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2017/06/03 19:08
古道311
陳微明の太極拳論(5) 九、相連不断 外家拳での勁は、いうところの後天の拙勁である。そうであるから動きに起こりがあり、また終わりがあるのである。また連続している時もあれば、途切れる時もあるのである。それまでの力が尽きて、新しい力が生じていない時、この時に最も相手に付けこまれやすいのである。太極拳では意を用いるが、力を用いることはない。始まりから終わりまで、柔らかく途切れることがない(綿綿不断)のである。一通りの動きが終われば、また始めから動き出す。循環して尽きることがないのである。「原論」に... ...続きを見る

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2017/06/02 19:07
古道310
陳微明の太極拳論(4) 七、上下相随 「上下相随」は、つまりは「太極拳論」にある「その根は脚にあり、腿に発す。腰を主宰とし、手指に形す」とあるところのものである。脚から腿、腰へと至るその全てが途切れることのない気の流れとしてつながっている。手が動けば腰が動き、そして足が動くのである。つまり、視線もまた身体の動きに随って動くことになる。これが、つまりは「上下相随」ということである。動いている時にどこか一か所でも動かないところがあれば、それは統一を欠いてしまうことになる。   八、... ...続きを見る

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2017/06/01 19:06
古道309
陳微明の太極拳論(3) 五、沈肩墜肘 「沈肩」とは、肩によけいな力を入れないで下に沈めることである。もし、よけいな力を入れたならば両肩は上がってしまい、気もまたそれにつれて上がってしまう。そうなると体のどこにも力を発することができなくなってしまう。「墜肘」とは、肘を上げることなく、よけいな力を入れないで垂らすことである。もし、肘が上がったならば、肩も沈めることができなくなる。相手を遠くに飛ばすこともできなくなり、それはあたかも外家拳に見られるような力の入れすぎで、勁が通っていない状態となるの... ...続きを見る

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2017/05/31 19:05
古道308
陳微明の太極拳論(2) 三、ショウ腰 腰は体の中心である。よく「ショウ腰」ができれば、両足に力がみなぎって、下半身が安定する。虚実の変化も、全ては腰の動きによってなされる。そのため「命の源は腰のあたりにある。もし、力が得られないようであれば、腰や足にその原因が求められる」といわれているのである。   四、分虚実(虚実を分ける) 太極拳では虚実を分けることを第一とする。全身の体重が右足にある時には、右足が実であり、左足は虚となる。全身の体重が左足にある時には、左足は実であり、右... ...続きを見る

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2017/05/30 15:15
古道307
陳微明の太極拳論(1) 楊澄甫口述「太極拳十要」 一、虚霊頂勁 「頂勁」とは、頭を真直ぐに立てることで、神が真直ぐに頭頂まで通るということである。この時にはよけいな力を入れてはならない。力を入れ過ぎると強張りが生まれて、気血の円滑な流れが阻害されてしまう。つまり、「虚霊」とは自然である、ということなのである。もし「虚霊頂勁」をよく行っていなければ、心を活性化することはできない。   二、含胸抜背 「含胸」とは、胸をやや内にすぼめて、気を丹田に沈めることである。胸は前に突き出... ...続きを見る

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2017/05/29 15:14
古道306
陳微明『太極拳答問』を読む(148) 第二年目は、太極長拳を学習する。ここでは動歩を学ぶことになる。加えて円滑な歩法をも練るのである。動歩推手は歩法を練るための推手である。太極拳を極めようと思うのであれば、太極長拳を学ばなければならない。そうでなければ、おそらくは正しい修行ができず混乱してしまうことであろう。第三年目は大リであり、四隅の変化や散手での攻防を修行する。ここに至って、太極拳の原理のすべてを学ぶこととなる。微細な優れた太極拳の教えを体得することができるようになるのである。引き続き修行... ...続きを見る

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2017/05/28 11:15
古道305
陳微明『太極拳答問』を読む(147) 最後に 王宗岳先生の「太極拳論」には「数年、ただ太極拳だけを練っても、必ずしも至高の境地に入れるとは限らない」とある。これほど太極拳において高いレベルの境地に入るのは困難なことなのである。三年で一通りの修行が終わるというのは、もっとも短い期間での一応の完成ということであり、それは太極拳のおおよそを知ることができるに過ぎない。第一年目は太極拳の基礎を学ぶのである。一年もすれば、だいたい正しい姿勢がとれるようになる。また腰をよく動かすことができるようになる。... ...続きを見る

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2017/05/27 11:14
古道304
陳微明『太極拳答問』を読む(146) 甲種(週六回クラス)の第一年の課程は、太極拳、不動歩推手、太極剣である。第二年の課程は太極長拳、動歩推手である。第三年の課程は大リ、散手、対剣、太極槍である。ここでの一年とは日曜日や季節の休暇の期間を除いて三百日で計算をする。 乙(週三回)、丙(週二回)、丁(週一回)のそれぞれのクラスでも、日数の合計が三百日となることで一年とする。三年間で甲、乙、丙、丁のクラスを変わっても良いが、すべては出席日数の合計によって計算をする。もし一年(つまり三百日)が終わっ... ...続きを見る

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2017/05/26 11:14
古道303
陳微明『太極拳答問』を読む(145) 致柔拳社三年の課程 本社が始まってから、ここで二年余りとなる。入会した人は、八百人か九百人にもなるであろうが、熱心にずっと続けているのは数人に過ぎない。その他の人は来てもすぐに止めてしまう。少し覚えて満足する人もいれば、長く続ける人もいる。太極拳を学ぶ目的はそれぞれであるが、数年の修行を経て一応の完成を得る人はごく少ないようである。この意味において私の致柔拳社は中国武術を普及しようとする当初の目的を果しえているとはいえない。詳しく現代の修行者を見るに、本... ...続きを見る

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2017/05/25 11:13
古道302
陳微明『太極拳答問』を読む(144) ここに以下の十一式を選んでみた。 一、太極起式 二、ラン雀尾左右揉手 三、左右ロウ膝ヨウ歩 四、十字手 五、左右雲手 六、左右打虎式 七、左右双風貫耳 八、左右野馬分ソウ 九、左右玉女穿サ 十、左右単鞭下勢 十一、左右トウ腿  それぞれの動きには右と左があるので、全部で二十四の動きとなる。もし、よく練習をしたならば、ひじょうに良い運動となることであろうし、太極拳の全ての動きを練習するのに等しいものが得られよう。 9−2太極拳の起勢は、どのような練法と... ...続きを見る

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2017/05/24 11:13
古道301
陳微明『太極拳答問』を読む(143) 9、太極拳の単式練法 9−1太極拳が生きていく上で有益であることは分かった。太極拳が普及され、人々が学ぶことを期待したいところであるが、出版されている太極拳の本を見てもよく分からないところがある。どうしたら師がなくても太極拳を自習することができるのか? 太極拳の動きは、丸く、途切れることが無い、極めて複雑なものとなっている。私の著した『太極拳術』では、かなり詳細に書いているが、これを読んだだけで太極拳の動きを習得するのは難しいであろう。おおよそ太極拳を... ...続きを見る

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2017/05/23 11:13
古道300
陳微明『太極拳答問』を読む(142) 陳先生は以前、私に言われたことがある。 『あなたは初めは病気を治したいということで来られましたね。健康になっても、怠ることなく練習をしていますね』と。 健康になってからは、特に目的を設けることなくひたすら練習をしている。わたしが太極拳を学んで得たところのものは、もとよりおおいに太極拳の効果であると思っている。先生にはもっと早く出逢いたかった、と悔やむばかりであるが、これからも怠ることなく練習をしたいと思っている!」 以上、梁さんの言われていることで、... ...続きを見る

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2017/05/22 19:17
古道299
陳微明『太極拳答問』を読む(141) そうであるから柔や弱からは、あらゆる効果が生じてくるのである。努めることなくして、自ずから効果が得られるようになるのである。気は損傷をしなければ、ますます旺盛なものとなる。いろいろな内家拳術とされるものの中でも、太極拳はもっとも整ったものとされている。これを伝えられた人は、きわめて健康になれるし、長生きもできるようになる。あるいは、このことは信じられないかもしれないが、わたしはこのように思っている。 ...続きを見る

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2017/05/21 19:17
古道298
陳微明『太極拳答問』を読む(140) わたしは、どうしてこのように速く効果が得られたのかは分からない。後に太極拳が渾円無極の運動であることを知った。帰するのは一気である。本来、人も天地の中で作られたものである。適切な機に応じて体を使えば、気血の動きも滞ることはない。先天の霊明さの失われることはなく、後天の体を長く養うことができるようになるのである。正しくこれを得れば尽きることない命を得ることができるが、正しくなければそうはいかない。思うに太極拳は柔を得るための方法である。荘子は「天下の至柔は、... ...続きを見る

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2017/05/20 19:16
古道297
陳微明『太極拳答問』を読む(139) 医師に言われたことを思い出したりしていて、少しく心が運動に動くこともあった。ちょうどその頃、湖北の陳微明先生は上海で致柔拳社を作られ、多くの男女の生徒に太極拳を教えておられた。学ぶ者はそれぞれに得るところがあったようである。持病のある人も、ことごとく健康を得たようである。私の父が入会を勧めてくれた。私は太極拳は中庸の気を整えるものであり、天の道と同じく生きる道であり、気血を調和させる最適な方法であると思っていた。そうであるから迷うことなく入会をした。時に丁... ...続きを見る

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2017/05/19 19:16
古道296
陳微明『太極拳答問』を読む(138) 一二名の医師に私は、 『この病気は薬を飲んで治るというものではありません。とにかくあまり疲れないようにすることですね。しかし、少しは体を動かす方が良いでしょう。それには、適度な運動が良いと思います』 と言われた。しかし、この時は、これを一笑に付して特に気にすることもなかった。生来、静かにしていることは好きであるが、運動は嫌いであったからである。もし、強く運動を勧められいたとしたら、かえって苦痛を感じていたかもしれない。この頃、絵を始めた。墨絵で花、木、... ...続きを見る

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2017/05/18 19:16
古道295
陳微明『太極拳答問』を読む(137) 8−2太極拳の練習は女性にも適しているか? 女性の体は柔らかい。太極拳の練習にはもっとも適している。致柔拳社に来られた女性で病気を持っていた人は均しく健康になった。広東の梁璧畳さんは、二年にわたり太極拳を学ばれた。かつて書かれた文章があるので、以下に載せておこう。特に女性の方はよく読んでいただきたい。 「わたしは女性である。もともと体は弱くはなかった。ただ静かにしているのが好きで、一日黙って坐って勉強ばかりをしていた。学問で身を立てようと思っていたので... ...続きを見る

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2017/05/17 19:15
古道294
陳微明『太極拳答問』を読む(136) 8太極拳の効果 8−1太極拳を練習したら、体にどのような効果があるのか? 私が致柔拳社を作ってから四年が過ぎた。入会した人は千余人にもなる。病気で悩んで来た人は皆、一年の後には健康を得た。気持ちも明るくなって、顔色も良く、肺結核や吐血、胃病、食欲不善、遺精、痔瘻、頭痛、めまい、手足の麻痺、肺や胃の病気など、いろいろな治りにくい病気が治ったことは枚挙にいとまがないほどである。太極拳を練習した後に、治病の効果が見られたのである。これに就いては致柔拳社で顕著... ...続きを見る

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2017/05/16 19:15
古道293
陳微明『太極拳答問』を読む(135) 第四は忍耐である。五年で功がならなければ、十年で大成を目指す。十年で得られなければ、二十年で得ようとする。もし、資質を欠いていて、思うように功を得ることができていないとしても、おおいなる忍耐力があれば、必ず大成を得ることができるであろう。 第五は謙譲である。功夫が少々得られたとしても、もう学ぶべきことはない等と、自らを誇ってはならない。もちろん、どのような拳術であっても、必ず特徴となるところがあるものである。他派の拳術も、よく虚心に研究してみるべきである... ...続きを見る

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2017/05/15 19:10
古道292
陳微明『太極拳答問』を読む(134) 7−7抜群の名人となろうとするのであれば、功夫はどのように練られるべきか? 第一に五種の心得がある。第一は信ずることである。一つの拳術を学ぶ場合には、大いにそれの優れていることを信じて行う必要がある。これを少しも疑ってはならない。 第二は礼儀である。師を選んで教えを請うのであるから、よく師を重んじて尊敬するべきであって、少しでもいいかげんなところがあってはならない。 第三は止めないことである。続けることができなければ、いい加減な迷信による病気治しをす... ...続きを見る

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2017/05/14 16:55
古道291
陳微明『太極拳答問』を読む(133) 7−6太極拳の練習をしていると、容易に緩めることはできる。しかし、演武をした時に、その見栄えは、外家拳の集中した演武にはかなわない。どのような部分が太極拳の見どころとなるのか? 太極拳の精神は内へと向かうものである。本当に太極拳のことを知らない人は、これをよく理解することはできない。そうであるから演武には適していないのである。本来、太極拳は修身、練己の功夫なのであり、広く多くの人から喝采を受けるようなものではない。 太極拳は養生のための運動としては最適... ...続きを見る

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2017/05/13 16:55
古道290
陳微明『太極拳答問』を読む(132) 7−5拳術にはいろいろな門派があり、それぞれ良しとするところが違っている。これは真剣勝負をしなければどれが正しいか分からない、ということか? たとえ真剣勝負をしたとしても、判断することは難しいであろう。たとえば甲がある拳術を習っているが、三年ほどであるとする。一方の乙も、ある種の拳術を習っているとして、五、六年習っているとする。この時、乙が勝つとする。この場合、甲の功夫が深くなかっただけで、拳術の門派の優劣が原因ではない、とも言える。もし、門派の優劣を厳... ...続きを見る

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2017/05/12 16:54
古道289
陳微明『太極拳答問』を読む(131) 7−4功夫の深い、浅いはどのように判断されるのか? 表面的なことでいえば、二人が試合をすれば自ずから勝敗は決まる。もし、詳しく見ようとするのであれば、たとえば一人が優れた体格をしていて力も強く、一人は体格も貧弱で力も弱いような場合、この二人が試合をして、必ずしも力の強い方が勝つとは限らない。力の強い方が、比較的有利であるといえるのに過ぎない。ただ一般的には、力の強い方が弱い方に勝つものである。しかし、力の強い方が、弱い方に勝てないのは、その功夫が弱い方に... ...続きを見る

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2017/05/11 16:54
古道288
陳微明『太極拳答問』を読む(130) 7−3たとえば一人は力が強くて、一人は弱いとして、同時に太極拳を学び始めるとすると、力のある方が有利か? もし学び始めて数年の間で、まだ勁が分かっていない時であれば、力のぶつかり合いを免れることはできないので、自ずから力のある方が有利である。しかし、勁を会得した後であれば、相手と離れることはないし、ぶつかりあうこともない。足腰もよく使えるようになっている。このレベルに至れば、力の強い方が必ずしも有利であるとはいえない。 ...続きを見る

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2017/05/10 16:54
古道287
陳微明『太極拳答問』を読む(129) 7−2太極拳を練習している人は多いが、名人とされる人は少ない。これはどうしてか? 私は楊済甫先生にお聞きしたことがある。先生は「名人となるためには、第一に適切な伝授を受ける必要がある。第二によく練習しなければならない。第三に体格が良くて、運動能力が高くなければならない。第四に細やかな感受性を持って相手の動静をよく把握できなければならない。この四つの全てが満たされて、さらに十年の苦練を行えば、だれでも大成を得ることができる」と言っておられた。 ...続きを見る

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2017/05/09 16:53
古道286
陳微明『太極拳答問』を読む(128) 7、太極拳を学ぶための体質と大成について 7−1どのような体質の人が太極拳を学ぶのに適しているのか? どのような体質の人は適していない、ということはない。ただ、体の柔らかい人と硬い人では、太極拳を学ぶ上で、体の柔らかい人は習いやすかったり、硬い人は難しかったりはする。おおよそ瘠せている人は動きが敏捷であるが、太っている人はやや緩慢である。つまり太った人は動きが滞りやすくなる。ただ、それぞれの体質に応じて良いところもあれば、悪いところもあるので、とにもか... ...続きを見る

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2017/05/08 16:49
古道285
陳微明『太極拳答問』を読む(127) 6−5太極拳を練習することをして、静坐の修練に代えることはできるのか? まったくもって可能である。静坐は妄念や雑念を取り除くものである。太極拳は集中を得るものである。集中が得られれば妄念などまったく生ずることもなく、心平、気静の境地へと入ることができるのである。他人の存在にも、自分の存在にもとらわれることなく、自由な境地にあって、体は爽快である。こうした境地を言葉で表現するのは難しいが、こうした状態が太極拳における三昧の境地なのである。 ...続きを見る

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2017/05/07 16:16
古道284
陳微明『太極拳答問』を読む(126) 柳華陽は「風火」をひじょうに重視していた。「火」とは「神」のことである。「風」とは「先天の呼吸」のことである。どのようにすればよく練神化気することができるのか? 水は煮られると、必ず蒸発して蒸気を生む。「精」とは「水」である。もし、神火を下の精に作用させれば、精は自ずから化して、気となるのである。ただ神火の精に及ぼす作用が不十分であれば、巽風をしてこれを盛んにする。そうすると火は必ず盛んになる。これは鋳物で風を送って火を起こすのと同じである。太極拳ではよく... ...続きを見る

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2017/05/06 16:15
古道283
陳微明『太極拳答問』を読む(125) 視ることを謹むとは、視覚が外に散らないようにすることであり、こうすると魂は肝へと戻るのである。聴くことを謹むとは、聴覚が外に散らないようにすることであり、こうすると精は腎へと戻るのである。言うことを謹むとは、よけいなおしゃべりをしないことであり、これにより神は心へと戻るのである。嗅ぐことを謹むとは、匂いに敏感になり過ぎないことであり、これにより魄は肺へと戻るのである。意を謹むとは、集中をするということであり、これにより意は脾へと戻ることになる。「精、神、魂... ...続きを見る

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2017/05/05 16:14
古道282
陳微明『太極拳答問』を読む(124) 6−4太極拳の練習をして、兼ねて静坐を習うのはどうか? 静坐を兼ねて習うことは、健康面で、さらに効果を得ることができる。ただ静坐の功はなかなか真伝を得ることが難しい。伝授が正しくなければ往々にして、大きな害を受けることになる。無益であるばかりではなく、有害ですらあることがある。もし、静坐を兼ねて習う場合に、真伝口訣を得ることができなければ、太極拳における意識状態に順じて、結跏趺坐をすると良い。つまり「頭を傾けず(虚霊頂勁)」、「背筋を立てて(尾閭中正)」... ...続きを見る

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2017/05/04 12:49
古道281
陳微明『太極拳答問』を読む(123) 6−3太極とは、結局どいうことか? 太極とは本来的には一なる円のことであり、それは陰陽が混合して一体となったものである。太極拳では、あらゆるところで「円、満」が求められ、またそれが「陰、陽」「虚、実」に分かれている。そうであるから太極と言われるのである。また太極は体の外的な動きを形容するものでもある。人の体には一なる穴がある。これは命のよって立つところであり、大中極という。「大」とは「太」ということであるから、この穴はつまりは人体における太極の中心であり... ...続きを見る

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2017/05/03 12:49
古道280
陳微明『太極拳答問』を読む(122) 柳華陽の『風火経』には「吸えは降り、吐けば開くとされるのは、つまりは先天、後天の二気の無気の働きのことなのである。つまり後天の気を吸えば、それによって先天の気が昇るのである。昇るのは乾であり、これは採取である。後天の気を吸えば、先天の気は降る。降るとは、坤に降るのであって、烹練をすることなのである。もし口や鼻で一呼一吸すれば、昇降することになる。これはつまりは先天の気の働きである」としている。 考えるのに先天の気の昇降と、太極拳の内的な働きは一致している... ...続きを見る

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2017/05/02 12:48
古道279
陳微明『太極拳答問』を読む(121) 6−2太極拳の呼吸は、どうなっているのか? 太極拳の呼吸は、動きの開合に応じている。吸うのは「開」で、吐くのが「合」である。李亦ヒン先生は「吸うと自然に体が上がって来る。また相手をして上に導くことができる。吐くと自然に沈む。また相手をして押し飛ばすことができる。吸うとは本来的に空気を取り入れることであり、これにより上がる動きが反対に出てくるのである。吐くとは本来的に空気を出すことであり、この働きに反して沈む動きが出てくる。およそ太極拳の呼吸の昇沈は、本来... ...続きを見る

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2017/05/01 12:48
古道278
陳微明『太極拳答問』を読む(120) 6、太極拳と導引、静坐 6−1太極拳と古導引の術は同じなのか? 古導引である熊経鳥申の華佗五禽戯は、鳥獣から法を得ている。太極拳にも倒輦猴、野馬分ソウなどがある。太極拳はもとより「虚、実、開、合」を行うものである。「虚、実、開、合」とは、つまりは呼吸を整えることである。その最も妙とするところは全身の運動であり、それが全く均一の速さで、緩やかになされるのである。動作が均一で、緩やかであれば、呼吸も自然に深く長くなる。そうであるから呼吸は特に整えることがな... ...続きを見る

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2017/04/30 15:39
古道277
陳微明『太極拳答問』を読む(119) 5−15截勁は、どのような時に使うのか? 截勁を使うのはタイミングがも最も重要である。少しでもタイミングを逸すると使えない。おおよそを言えば、相手の勁が発せられようとして発せられない時、そのタイミングで用いると、截勁を最も効果的に使えるのである。 ...続きを見る

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2017/04/29 15:39
古道276
陳微明『太極拳答問』を読む(118) 5−14硬勁と鬆勁とは、どのような違いがあるのか? 硬勁は、内に籠る。百斤の力で打っても、相手に届くのは五十斤に過ぎない。半分の力は、相手に届くことがないのである。鬆勁は石を投げるようなもので、力は遠くに及ぶことになる。もし、百斤の勁を放ったならば、そのまま百斤の力が相手に及ぶことになり、少しも損ずることがないのである。 ...続きを見る

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2017/04/28 15:38
古道275
陳微明『太極拳答問』を読む(117) 5−13円勁と直勁には、どのような違いがあるのか? 「太極拳論」では「曲の中に直を求める」とある。円勁の中には、必ず直勁があるのである。直勁の中にも必ず円勁がある。もし、円勁だけで、直勁が無ければ、ただ相手の攻撃を流すだけで攻撃をすることはできない。もし、直勁だけで、円勁が無ければ、相手に化勁を使われてしまえば、必ず体勢を崩されてしまう。そうであるから円勁と直勁は融合して一つになることが最も好ましいのである。 ...続きを見る

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2017/04/27 15:38
古道274
陳微明『太極拳答問』を読む(116) 5−12「勁」と「力」とは、どのような違いがあるのか? 「力」は生まれつき持っているものである。「勁」は修練によって得られるものである。生まれながらに持っている「力」はいうならば「生(なま)の力」である。たとえば鉄であれば、精錬をしていない鉄である。修練によって練り出される「勁」は、精錬した鉄であり鋼である。古くは「力は功にはかなわない」と言われていた。「功」とは修練によって得られる「勁」のことである。どのような拳術であっても、修練が行われる。そこにおい... ...続きを見る

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2017/04/26 15:38
古道273
陳微明『太極拳答問』を読む(115) 5−11「勁」は、形から形への動きである「着」と、どのような違いがあるか? 「着」とは変化の法である。「勁」は「着」と共に使われるものである。「着」にはいろいろな動きがあるが、「勁」はただ一つである。どのような「着」にあっても、「勁」はただ一つである。しかし、「勁」をどのように使うか、という点においては違いがある。つまり「勁」は、それぞれの場面に応じて変化をするのである。 ...続きを見る

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2017/04/25 15:38
古道272
陳微明『太極拳答問』を読む(114) 5−10トウソウ勁とは何か? 相手が背後から攻撃をして来て、転身をする時間のない時に身体を震わせる。そうすれば相手はバランスを失うことになる。ただ、この勁は大変に高度なレベルでなければ使えない。これがトウソウ勁である。【トウは手篇に斗、ソウは手篇に数】 ...続きを見る

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2017/04/24 15:37
古道271
陳微明『太極拳答問』を読む(113) 5−9入勁とは何か? 掌が相手の身体に触れたら、気を沈めて瞬時に掌を打ち出す。そうすると勁が相手の身体の中に入る。五臓に振動が加えられて、必ず重症を負うことになる。これが入勁である。 ...続きを見る

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2017/04/23 15:37
古道270
陳微明『太極拳答問』を読む(112) 5−8捲勁とは何か? 拳が相手の身体に当たったら、キリでねじ込むようにする。これが捲勁である。 ...続きを見る

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2017/04/22 15:37
古道269
陳微明『太極拳答問』を読む(111) 5−7截勁とは何か? もし、相手が打ってきたら、そのままで截勁を使う。截勁とは、つまりはホウ勁のことである。相手の攻撃を断てばすぐに攻撃をする。これは功夫が深くなければできないことである。【ホウは石篇に並】 ...続きを見る

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2017/04/21 18:15
古道268
陳微明『太極拳答問』を読む(110) 5−6借勁とは何か? 相手が前に押してきたら、その力を借りて相手を捉える。もし、相手が捉えられないように反発しても、その力のままに勁を発する。左右上下どの方向でも勁を発することができる。これが借勁である。 ...続きを見る

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2017/04/20 18:14
古道267
陳微明『太極拳答問』を読む(109) 5−5放勁とは何か? 相手がバランスを崩した時に、崩れた方向に勁を放つ。そうして少しも力を使うことなく相手を彼方に押し飛ばす。これが提勁である。『太極拳論』には「勁を蓄えるのは弓を張るが如くで、勁を発するのは矢を放つよう」とある。相手が上に崩そうとしたら、その時にはこちらは既に勁を蓄えている状態にある。相手の押されるままにしている一方で「沈着ショウ浄」になっているのである。そして矢を放つように勁を発するわけである。孫子は「勢は弩を張るように、節は機を発す... ...続きを見る

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2017/04/19 18:14
古道266
陳微明『太極拳答問』を読む(108) 5−4提勁とは何か? 相手の腕に粘勁を使っている時、力任せに腕を持ち上げようとしたら、そのまま腕を挙げさせて、相手の重心を奪う。これが提勁である。 ...続きを見る

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2017/04/18 18:14
古道265
陳微明『太極拳答問』を読む(107) 5−3化勁とは何か? 相手に粘勁を使っている時に、相手が強く打って来たら、粘勁によりその力を受け流す。相手の力は真直ぐに来る。それを左右に丸く変化をさせるのである。これが化勁である。 ...続きを見る

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2017/04/17 18:13
古道264
陳微明『太極拳答問』を読む(106) 5−2粘勁とは何か? 相手の腕などに粘り付くことである。ある時には軽く触れるし、ある時には密着して、離れることがないようにする。これが粘勁である。 ...続きを見る

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2017/04/16 18:13
古道263
陳微明『太極拳答問』を読む(105) 5、太極拳の勁 5−1太極拳の勁には、どのようなものがあるのか? 私の知っているところでは粘勁、化勁、提勁、放勁、借勁、截勁、捲勁、入勁、トウ勁、ソウ勁など数種があるようである。【トウは手篇に「斗」、ソウは手篇に「数」】 ...続きを見る

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2017/04/15 18:13
古道262
陳微明『太極拳答問』を読む(104) 4−36相手の腕に粘を用いている時に、蹴ってきたら、それを知ることはできるのか? 可能である。たとえ蹴りを用いても、身体は動くものである。相手が蹴ろうとした時に、こちらは下から相手の腕をとってその重心を奪えば、蹴ることはできなくなるであろう。また相手が蹴ろうとした時に、こちらは歩を進めて体当たりをすれば、相手はバランスを崩して蹴りをすることはできない。両足で立っていても、不安定であることもあるのに、一本足でどうして安定した動きができるであろうか? 相手が... ...続きを見る

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2017/04/14 18:12
古道261
陳微明『太極拳答問』を読む(102) 太極拳には、ただ「粘」の一字があるだけである。あらゆる変化も、この「粘」から生まれてくるのである。「太極拳論」には「相手にはこちらの動きが知られることはない。自分だけが相手の様子を知っている。こうした高い境地に達した者の向かうところは無敵である」とある。およそ推手の法は、すべて相手を知るための功夫を練るためのものなのである。他派の拳法の技は優れていても、推手を練習することがない。そうであるから、すべてが動きの速さや動体視力の速さに頼るほかないのである。例え... ...続きを見る

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2017/04/13 15:11
古道260
陳微明『太極拳答問』を読む(101) 以上は散手の用法であるが、そのおおよそを述べたに過ぎない。もとより相手がどのように攻撃をしてくるのかは分からないのであるから、こちらが決まった形をしてそれに対することなどできるものなのであろうか? 要するに相手の動きに応じて、こちらも変化ができなくてはならないのである。もし、これができるようになろうと思うのであれば、推手の時にひじょうに鋭敏な感覚を練り出すことが求められる。たとえ動体視力や手の動きが速くとも、鋭敏な感覚を使うことができなければ、相手に対応す... ...続きを見る

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2017/04/12 15:11
古道259
陳微明『太極拳答問』を読む(100) 4−35彎弓射虎の用法はどうか? 相手がもし右側からこちらの右腕を押してきたら、それにさからうことなく受け流す。こちらは右拳を転じて相手のわきの下へ入れて、腰勁を用いて相手の腕を解き放つ。 ...続きを見る

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2017/04/11 15:11
古道258
陳微明『太極拳答問』を読む(99) 4−34転脚擺蓮の用法はどうか? 相手が右拳で打ってきたら、こちらは右手でそれを払い捉えて、左手でその肘を押す。身を転じて、右足で相手の背中を蹴る。 ...続きを見る

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2017/04/10 15:10
古道257
陳微明『太極拳答問』を読む(98) 4−33退歩跨虎の用法はどうか? 上歩七星と同様に相手がひじょうに強く攻撃して来たら、こちらは退いて両手を左右に分け開いて、相手の拳をさばく。また左足で蹴る。 ...続きを見る

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2017/04/09 15:10
古道256
陳微明『太極拳答問』を読む(97) 4ー32上歩七星の用法はどうか? 相手が拳で下から上へとこちらの顔を打って来たら、両拳でそれを引っ掛けるように受けて、相手を飛ばす。これは截勁でもある。また同時に右足で相手の足などを蹴ることもできる。およそ虚歩はすべて足を使うための準備である。 ...続きを見る

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2017/04/08 15:10
古道255
陳微明『太極拳答問』を読む(97) 4−31金鶏独立の用法はどうか? 相手とひじょうに近い間合いなった時に、掌か拳でその下あごを打つ。また同時に膝で下腹部を蹴る。 ...続きを見る

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2017/04/07 15:09
古道254
陳微明『太極拳答問』を読む(96) 4−30単鞭下勢の用法はどうか? 下勢は相手が強力な攻撃をして来た時に、こちらは身体を低くして、それを化するものである。その後に身体を起こして相手を打つ。 ...続きを見る

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2017/04/06 14:33
古道253
陳微明『太極拳答問』を読む(95) 4−29玉女穿梭の用法はどうか? 相手が右拳または右掌で、こちらの頭部を攻撃して来たら、こちらは左腕で上に崩して、右掌で相手の胸を打つ。およそ、こちらの腕と相手の腕を粘らせて、相手の腕を挙げれば、玉女穿梭で相手を打つことができる。相手の勢いに順じて行えば容易に技を使うことができる。 ...続きを見る

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2017/04/05 14:33
古道252
陳微明『太極拳答問』を読む(94) 4−28野馬分ソウの用法はどうか? 相手が右拳でこちらの頭部、または胸部を攻撃して来たら、こちらは右手でこれを左から採る。左足を進めて相手の後ろに回り、左腕を相手の胸に置いて、腰を左に転じる。そうすると相手の身体を左に投げることができる。相手がもし、左拳で攻撃して来たら、こちらは左手で左からそれを採って、右足を進めて相手の後ろに回り込み、右腕を相手の胸に進めて、腰を右に転じると、相手の身体は右へと投げることができる。 ...続きを見る

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2017/04/04 14:33
古道251
陳微明『太極拳答問』を読む(93) 4−27双風耳貫の用法はどうか? 両手で押したら、相手は両手でこれを下に流す。その勢いに逆らうことなく、下から両手を左右に開いて、耳の穴を打つ。 ...続きを見る

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2017/04/03 14:32
古道250
陳微明『太極拳答問』を読む(92) 4−26ヒ(手篇に皮)身伏虎式の用法はどうか? 相手が両手で、こちらの右腕を掴んで来たら、腰の動きと共に、腕を下から右へと回して、その力を化する。左手で相手の右肘を採り、それを跳ね上げて、左拳で相手の頭部を横から回し打つ。また、相手が左手で、こちらの右腕を押して来たら、こちらは左手で相手の腕を下へと払い、右手で相手で打つ。拳で相手の腰のあたりを打つのである。これに対して、相手が右手でこちらの左腕を押して来たら、こちらは右手で下から、その腕に接して、左手で打... ...続きを見る

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2017/04/02 14:32
古道249
陳微明『太極拳答問』を読む(91) 4−25栽錘の用法はどうか? 相手は身を低くして、こちらの下腹部を打って来る。またはこちらの左足を払う。こちらは左手でそれをいなして、右拳で打つ。 ...続きを見る

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2017/04/01 14:31
古道248
陳微明『太極拳答問』を読む(90) 4−24転身トウ脚の用法はどうか? 相手が後ろから攻撃して来たら、転身をして手で相手の顔を打ち、トウ脚で蹴れば、相手はこれを防ぐことはできないであろう。これ以降のトウ脚の用法も、大体はこれと同じである。 ...続きを見る

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2017/03/31 14:31
古道247
陳微明『太極拳答問』を読む(89) 4−23右分脚の用法はどうか? 相手が左掌または左拳で打って来たら、こちらは右足を進めて左手でその腕に触れる。右腕でそれを跳ね上げ、右足を挙げて腹を蹴る。また、相手が右掌または右拳で打って来たら、こちらは左足を進めて右手でその腕に触れる。左腕でそれを跳ね上げ、左足を挙げて腹を蹴る。 ...続きを見る

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2017/03/30 14:31
古道246
陳微明『太極拳答問』を読む(88) 4−22高探馬の用法はどうか? 相手が右拳で打って来たら、左掌でそれに触れて、右手で相手の顔を打つ。 ...続きを見る

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2017/03/29 14:30
古道245
陳微明『太極拳答問』を読む(87) 4−21高探馬の用法はどうか? 相手が右拳で打って来る。こちらは左掌でそれに触れ、右手で顔を打つ。 ...続きを見る

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2017/03/28 14:30
古道244
陳微明『太極拳答問』を読む(86) 4−20雲手の用法はどうか? 雲手は本来は腰を練るための重要な形である。両手を車輪のようにまわして、相手の手を引く。または後ろから打って来たのを、腰を回してそれを受け、掌を翻して、相手の肩を打つ。 ...続きを見る

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2017/03/27 14:04
古道243
陳微明『太極拳答問』を読む(85) 4−19ヘイ身錘の用法はどうか? 右掌で相手を打とうとしたら、相手は下に払う。その力に随って、肘を沈め、拳で下から相手の胸を打ち、左掌で顔を打つ。これが筋闘錘である。 ...続きを見る

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2017/03/26 14:03
古道242
陳微明『太極拳答問』を読む(84) 4−18扇通臂の用法はどうか? 相手が右腕を採って来たら、海底式の動きで、その力を利かなくさせる。この時に相手がもし上段を攻撃して来たら、右手を挙げてそれを防ぎ、左足を進めて、左掌で相手の胸を打つ。 ...続きを見る

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2017/03/25 14:03
古道241
陳微明『太極拳答問』を読む(83) 4−17海底針の用法はどうか? 相手が、こちらの右手を採って来たら、海底式の動きで、その力を利かなくさせる。つまり、力が入らなくさせるのである。 ...続きを見る

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2017/03/24 14:03
古道240
陳微明『太極拳答問』を読む(82) 4−16斜飛式の用法はどうか? 右掌または右拳で打って行った時、相手は左手で右からこちらの右肘を押して来る。こちらは左手で右肘を押して来る手を採って、右手で相手のこめかみ(太陽穴)を打つ。これをレツ(手篇に列)勁という。 ...続きを見る

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2017/03/23 14:02
古道239
陳微明『太極拳答問』を読む(81) 4−15倒輦猴の用法はどうか? 相手が右拳で胸または腹を攻撃してきたら、左掌でその右腕を採る。胸をくぼませて後ろ脚に体重をのせ、右掌で相手の顔を打つ。相手がもし、左拳でこちらの胸または腹を打ってきたら、右掌でその左腕を採る。そして胸をくぼませて後ろ足に体重をのせ、左掌で相手の顔を打つ。 ...続きを見る

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2017/03/22 17:42
古道238
陳微明『太極拳答問』を読む(80) 4−14肘下錘の用法はどうか? これは連環三手である。右の掌あるいは拳で横から相手の太陽穴を攻撃する。相手がそれを左手で払ったら、それを絡め取って、こちらの左肘の下にもっていく。そして左掌で相手の顔を打つ。また、相手が、こちらの左掌を払ったら、右掌で肘の下から相手の胸を打つ。この三手はどれかが必ず当たるものである。 ...続きを見る

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2017/03/21 17:42
古道237
陳微明『太極拳答問』を読む(79) 4−13抱虎帰山の用法はどうか? 抱虎帰山は前後の相手に対する方法である。相手が右斜め前より打ってくると、こちらは右手で上より粘り触れ、左掌で相手の顔を打つ。この時に、左から攻撃してきたら、転身をして単鞭でこれを打つ。楊少侯先生は「抱虎帰山は、身を低くして虎の前足をすくうように行うものであり、ひとつの練法である」と述べておられた。 ...続きを見る

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2017/03/20 17:42
古道236
陳微明『太極拳答問』を読む(78) 4−12十字手の用法はどうか? 両手で、相手の両手を粘り触れる。ある時は相手の両手を開き(分勁)、ある時は合わせる(合勁)。 ...続きを見る

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2017/03/19 17:41
古道235
陳微明『太極拳答問』を読む(77) 4−11如封似閉の用法はどうか? 右拳で打った時に、相手は左手で、こちらの肘を横に払う。こちらは左手で相手の肘を外側から抑える。更に押してきたら、右腕を右側に抜いて、前に伸ばし、相手の肘に接する。両手で相手を押して、跳ね飛ばす。 ...続きを見る

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2017/03/18 17:41
古道234
陳微明『太極拳答問』を読む(76) 4−10進歩搬ラン錘の用法はどうか? 相手がもし、右拳でこちらの胸、または腹を打ってきたら、右拳で上から下へと相手の腕を巻き込む。この時に拳心は上に向く。そして左掌で相手の顔を打つ。もし、相手が左手で、こちらの左掌を受けたなら、すぐに右拳で相手の腹あるいは胸を打つ。これが緊三錘といわれるものである。 ...続きを見る

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2017/03/17 17:40
古道233
陳微明『太極拳答問』を読む(75) 4−9ロウ膝ヨウ歩の用法はどうか? 相手が右拳で攻撃してきた時に、腕を伸ばして打ってきたなら、こちらは右掌でその手に接し、左掌でその肘に接する。腰勁を用いて、相手の攻撃を右に流す。両掌でその腕をねじれば、相手は必ずケガを負うことになろう。この時に、両手の勁が協調して使われれば、肘関節を傷ることも可能となる。これはつまりは「リ」の勁である。これをケツ勁という。【注】ケツは「蕨」の草かんむりではなく、手篇の字。ケツ勁は相手を落とし穴に落とすような力の使い方で「... ...続きを見る

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2017/03/16 17:40
古道232
陳微明『太極拳答問』を読む(74) 4−8白鶴亮翅の用法はどうか? 右掌あるいは右拳で攻撃をした時に、相手が左手で、こちらの右腕を抑えたら、さらに右拳で回し打つ。この時、相手が右腕を抑えてきたら、その押す力(按の勁)をそのままに受ける。さらに相手は左手を粘らせて、こちらの右拳を採ろうとしたならば、こちらは右拳は身体の横を通って転じさせ、相手の太陽穴を打つ。これを反珠掌という。 ...続きを見る

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2017/03/15 17:40
古道231
陳微明『太極拳答問』を読む(73) 4−7提手上勢の用法はどうか? 右拳または右掌で攻撃した時、相手は右手でそれを打ち落とそうとする。こちらは、それに逆らうことなく力を緩める。左手で相手の右手を引っ掛け、右手を下から上へと挙げる。左手は相手の腹のあたりから胸のあたりに挙げ、右手は頬から鼻のあたりに挙げる。これが上へ向けての提勁である。 ...続きを見る

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2017/03/14 17:53
古道230
陳微明『太極拳答問』を読む(72) 4−6吊手にはどのような用法があるか? 吊手では捲勁が用いられる。捲勁を使う時には、指先から指の関節、手の甲、腕を用いる。回すように前から下へと使うのである。 ...続きを見る

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2017/03/13 17:52
古道229
陳微明『太極拳答問』を読む(71) 4−5単鞭の用法はどうか? 単鞭の用法としては、左右の相手に対することができるし、ある時には一人の相手に両掌を使うことも可能である。 ...続きを見る

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2017/03/12 17:52
古道228
陳微明『太極拳答問』を読む(70) 4−4ラン雀尾の用法はなにか? 相手が右拳で打って来たら、右手で粘らせる。また左拳で打って来た時には、左手で粘らせて、右足を進める。すでに右足が前にあれば、そのままで良い。右腕でこれを「リ」して、相手を横に向かせ、後ろを取る。こうして相手の力を使えなくして、「セイ」を行ったり、「按」を行ったりするのであるが、相手の様子をよく見てそれに応じて動かなければならない。 ...続きを見る

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2017/03/11 17:52
古道227
陳微明『太極拳答問』を読む(69) 4−3二人が居たとして、粘による聴勁の勁功夫がほぼ同じであれば、どのように散手を行うのか? こうした場合には容易に相手を攻めることができない。共に聴勁を使えば、離れることができなくなる。もし、片方が手を離そうとしても、粘りをもって、それを離すことなく散手をすることができれば、その人の功夫はかなり深いといえよう。そうであるから太極拳に精通している人は、相手に粘勁を使って、それを離すことがないのである。つまり、粘の功夫はひじょうに重要なのであり、決して疎かにし... ...続きを見る

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2017/03/10 17:52
古道226
陳微明『太極拳答問』を読む(68) 4−2もし、他派の拳術家でひじょうに手足の動きが速く、まったく粘を使うことができないような時にはどうすればよいか? 他派の拳術は、相手と離れることを第一とする。しかし、あまりに離れすぎると、攻撃が届かなくなる。もし、こちらを攻撃しようとするならば、必ず手足が届く範囲でなければならない。こうして相手が近づいて来れば、粘を使うことができる。相手に粘を使うことができれば、その勁の働きを聴くことも可能である。速い動きには速く応じる。ゆっくりであればゆっくり応じる。... ...続きを見る

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2017/03/09 17:51
古道225
陳微明『太極拳答問』を読む(67) 孫子は「自分を知って、相手を知る」と言っている。相手を知るのは自分を知ることの後なのである。太極拳の聴勁は、まったく相手を知るための功夫である。相手に粘り付いて、相手が動かなければこちらも動かない。相手が少しでも動く気配を見せたならば、こちらが先に動くのである。相手に聴勁をさせないで、一気に跳ね飛ばしてしまうのである。もし、太極拳の聴勁の功夫が不十分であったならば、必ずしも相手と打ちあう練習をする必要はないのである。 ...続きを見る

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2017/03/08 17:51
古道224
陳微明『太極拳答問』を読む(66) つまりは、太極拳の散手と、他の拳術の散手は違っているのである。太極拳の散手は粘り付いて聴勁を働かせ、勁を発するのである。ほかの拳術の散手は、離れたところから足や手を出して撃ち合うのである。間合いが遠すぎると手足が互いに届かないし、近すぎるともつれあうようになってしまう。そして力のある方が勝つのことになる。許禹生氏は『太極拳勢図解』で、それぞれの動きの説明の後に、応用について、ひじょうに詳しく述べている。かつて楊澄甫先生は「著わした『太極拳術』に散手の用法を加... ...続きを見る

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2017/03/07 17:51
古道223
陳微明『太極拳答問』を読む(65) たとえば相手が打って来た時に、それに粘り付くことができなければ、相手に聴勁を使うことはできず、相手の勁を知ることも不可能である。相手の勁を聴くことができなければ、あるいは左に行くことも、右に行くことも、高くも、低くも、進むことも、退くことも散手において、適切に行うことが出来なくなってしまう。相手に粘り付いて、相手が手を挙げてたなら、こちらもそれに随って手を挙げる。そうして手を挙げるのに合わせて、もう一方の手で相手の胸を打つのである。もし、相手が手を下げたなら... ...続きを見る

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2017/03/06 16:27
古道222
陳微明『太極拳答問』を読む(64) 4、太極拳の散手 4−1太極拳の散手は、どのように実戦と結びつくのか? 太極拳には七十余りの動きがあるが、これらは等しく散手なのである。すでに散手があるのにどうして、更に推手の法を学ぶ必要があるのか? およそ太極拳の散手の変化は、すべて推手で養われる聴勁によるのである。よく聴勁ができれば、散手においても、よくその能力を用いることができる。もし、相手に粘り付くことができなければ、聴勁をそのまま散手に用いることができないであろう。もし、相手に粘り付くことが出... ...続きを見る

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2017/03/05 16:27
古道221
陳微明『太極拳答問』を読む(63) 3−26先にも出た粘を用いることがなくて、聴勁を行うとすれば、どういった状態となるのか? 相手に粘り付いていれば、相手は打つことができない。それは、粘り付くことで相手の勁を知ることが出来るからである。そうであるから粘り付いて勁の動きを知ることが出来ない場合には、相手は打つことが可能である。それは粘り付くことがなければ、こちらは相手の勁の働きを知ることができないからである。ただ粘り付くことがなくても、相手の勁の動きを知ることができないわけではない。勿論、まっ... ...続きを見る

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2017/03/04 16:26
古道220
陳微明『太極拳答問』を読む(62) 3−25太極拳において、最も重要なことは「逆らわない、押し込まない」ということである。もし、よく聴勁ができるとして、二人がともに逆らうこともなく、押し込むこともなければ、永遠に相手に勁を放つことはできない、ということになるのか? かりに相手の両手が等しく聴勁が出来て、勁を発する機会を得ることができない場合でも、体のどこかには聴勁の不十分なところがあるものである。そうしたところを見つけたならば、その機に乗じて、力の拮抗を見出して、速やかに勁を放つのである。ま... ...続きを見る

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2017/03/03 16:26
古道219
陳微明『太極拳答問』を読む(61) 3−24「退く中に進むを求める」とはどういうことか? 例えば相手が進んで来て、こちらが退くことのできない状態となったら、相手の腕に粘り付いて、相手が引いた時に、それに合わせてこちらは前に進むことができる。この時に、こちらの手が腰と連動して動いて勁を放てば、さらに相手を遠くまで飛ばすことが可能となる。 ...続きを見る

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2017/03/02 16:26
古道218
陳微明『太極拳答問』を読む(60) 3−23勁を放つのに、放ちやすい時というものはあるのか? あるいは勁を放とうとした時に相手が変化をしてしまうと、その中心を捕らえることができなくなってしまう。これは勁を放つことのできない場合である。この時に相手の中心は他のところに移っているからである。しかし、その変化が充分でなく、こちらが捕らえることができれば、それは勁を放ちやすい時となる。 ...続きを見る

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2017/03/01 16:25
古道217
陳微明『太極拳答問』を読む(59) 3−22勁を放ちやすいところとは、どういったところか? たとえばある人は、体のある部位はよく動くが、ある部位は堅かったりする。この堅いところを打つのである。そこに勁を放つのである。 ...続きを見る

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2017/02/28 16:25
古道216
陳微明『太極拳答問』を読む(58) 3−21推手では「ホウ、リ、セイ、アン」が用いられるが、ある人にこれを用いて相手を飛ばすことができるが、ある人にはできない。それはどうしてか? これは個々の人の体の柔軟性や強靭性の違いによるものである。ある人は肩は柔らかいが、腰は堅い。肩は堅いが腰は柔らかい。また肩も腰も柔らかかったり、共に堅かったりする。そうであるから同じ法(テクニック)を使っても、利き方に違いが出てくるのである。相手のよく動く部位では勁を利かせるのが難しい。そうしたところで勁を発するの... ...続きを見る

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2017/02/27 16:25
古道215
陳微明『太極拳答問』を読む(57) 3−20『太極拳論』には「動の中に静を求める。静とはすなわち動のごとくである」とあるが、推手の時、動の中にどうやって静を求めるのか? 推手の時には、相手に粘り付く。相手に従って動くのである。この動の中にあっては、意識が静を得ていなければならない。動の中に静が無ければ、相手の思うように動かされてしまい、動きをコントロールすることはできない。こうした時に、相手がこちらの動きに合わせて勁を放てるのは、相手の動きをコントロールできていないからである。動の中にあって... ...続きを見る

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2017/02/26 16:24
古道214
陳微明『太極拳答問』を読む(56) 3−19勁を放つ時に「沈着鬆浄」となるとは、全身の勁を使うということか? 全身の勁を使って、勁を放てば、必ず相手を遠くに飛ばすことができる。もし、両手だけの力を使ったのであればそうはならない。太極拳において勁を放つのには長い距離が必要であるが、功夫がより深くなれば距離はより短くても勁を発することができるようになる。時には動いているように見えなくても相手が飛ばされていることがある。このようなレベルになると、勁を放つ距離は短くても、その力はひじょうに大きなもの... ...続きを見る

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2017/02/25 16:24
古道213
陳微明『太極拳答問』を読む(55) 3−18『太極拳論』には「己を捨てて、相手に従う」とあるが、どうして相手に従うのか? 『太極拳論』にある「己を捨てて、相手に従う」は、老子の「与えて取る」というのと同じである。遠い間合い、近い間合いであっても、共に相手の動きに付いて行くのである。ただ、どちらの間合いを使うのかは、自分の功夫の深い、浅いによる。功夫が浅ければ、遠い間合いを使わなければならない。相手の攻撃する力が終わるのを待って反撃をするのである。功夫がやや深くなったら、より近い間合いを使うこ... ...続きを見る

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2017/02/24 16:24
古道212
陳微明『太極拳答問』を読む(54) 3−17拿法(固め技)はどのようにするのか? 太極拳の拿法は、強い力で相手を動けなくさせるようなものではない。その原理には三つの特色がある。 一つは、逆手を用いない、ということである。逆手を使うと、より強い力の相手には返されてしまう。二つは、相手の力がひじょうに大きい場合には、それに逆らうことができないので、そのままで円圏の働きを使って、その力を無理なく断つことである。あるいはこれは、相手を動かしているようには見えないかもしれないが、この働きを相手は返す... ...続きを見る

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2017/02/23 16:23
古道211
陳微明『太極拳答問』を読む(53) 3−16相手が力まかせに押して来ても、力がこちらに及んでいないように感じるのはどうしてか? これは化勁を使っているからである。化勁を使えば、相手の力が強くても関係がない。相手に逆らうことなく、無理に押し返すこともしない。遠い間合いでも、近い間合いでも、遅く押して来ても、速く押して来ても相手の動きに合わせて、その動きを捉え、バランスを失わせてしまうのである。相手は軽く触れられているようにしか感じられない。しかし、そこには内外の感覚を用いて腰足がよく使われてい... ...続きを見る

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2017/02/22 16:23
古道210
陳微明『太極拳答問』を読む(52) 3−15太極拳では相手の力に抵抗することはしないが、そうならばどうやって相手を倒すことができるのか? 太極拳は相手を無理に倒そうとはしない。無理やりの力を用いるのではなく、練り出したホウ勁を用いるのである。ひじょうに無理のない円い力を使うのである。ただの腕の力で押すのではなくて、全身あらゆるところを用いて押すのである。そうであるから功夫が深くなれば、相手が押して来た時に化勁を用いてその力を受け流さなくても、その力を全身で受け止めるので押されることはないので... ...続きを見る

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2017/02/21 16:13
古道209
陳微明『太極拳答問』を読む(51) 3−14太極拳では柔をもっとも重要なこととしますが、柔を求めるのにはどのような利益があるのか? 柔を求めるのは、柔が得られなければ全身を使うことができず、全身が協調することができないからである。例えば手を動かそうとして、手だけが動いて肘が動かない、あるいは肘を動かそうとして、肘だけが動いて肩が動かない、または肩を動かそうとして、肩だけが動いて体が動かない、体を動かそうとして、体だけが動いて腰が動かない、腰を動かそうとして、腰が動いて足が動かない、これで泰山... ...続きを見る

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2017/02/20 17:12
古道208
陳微明『太極拳答問』を読む(50) 3−13黄百家の内家拳法には攻撃の技として「長拳滾カン」「分心十字」「擺肘逼門」「迎風鉄扇」「異物投先」「推肘捕陰」「彎心杵肘」「舜子投井」「剪腕点節」「紅霞貫日」「烏雲掩月」「猿猴献果」「ワン肘カ靠」「仙人照掌」「彎弓大歩」「兌換抱月」「左右揚鞭」「鉄門閃」「柳穿魚」「満肚疼」「連枝箭」「一提金」「双架筆」「金剛跌」「双推窓」「順索羊」「乱抽麻」「燕タイ腮」「虎抱頭」「四把腰」などがあるが、今の太極拳にはこうした技があるのか? これは全て用法の名称である... ...続きを見る

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2017/02/19 12:01
古道207
陳微明『太極拳答問』を読む(49) 3−12八卦掌では円周の上を歩き、その変化は極まることがない。太極拳にも、こうした円転の歩法はあるのか? 昔、楊少侯先生と推手をしていた時に、下から上へと円を描くようにして手を動かしていた。この時に二人の歩法は右に円を描いて周っていた。右足は円の内側にあって、同じところを踏み、左足が前に進むのである。歩は極めて軽く踏むことになる。つまり「歩を進めるのは猫のよう」とされるところである。 左手を粘らせている時には、左足が円の内側となる。右足を進めて左に転ずる... ...続きを見る

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2017/02/18 12:01
古道206
陳微明『太極拳答問』を読む(48) 3−11「粘」を使わないで、聴勁をすることはできるのか? あるいは、こうしたことも言われている。内家拳は「練精化気、練気化神、練神還虚」の三つの境地と同じである、ということである。もし、よく「練精化気」を練ったならば、体力がついて、力も強くなる。もし、よく「練気化神」を練ることができたならば、「意」のままに動き変化をすることができるようになる。もし、よく「練神還虚」を練ることができたならば、相手にも、自分にもとらわれることが無くなる。こうした境地に入ると「... ...続きを見る

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2017/02/17 12:01
古道205
陳微明『太極拳答問』を読む(47) 3−10敵に「粘」をもって触れ、すぐに飛ばしてしまう。これはどのような法を用いているのか? 「太極拳論」には「上があれば、つまりは下がある。前があれば、つまりは後ろがある。左があれば、つまりは右がある」とある。この三つは特に注意する必要がある。これは相手を誘って、そのすきを攻める、ということである。孫子も「前の備えを固めれば、後ろは疎かになる。後ろの備えを固めれば、前は疎かになる。左の備えを固めれば、右は疎かになる。右の備えを固めれば、左は疎かになる。どこ... ...続きを見る

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2017/02/16 12:00
古道204
陳微明『太極拳答問』を読む(46) 3−9推手の聴勁(相手の力の強弱などを知ることで、これを聴勁という)では、両手を用いるだけであるが、他の部位でも聴勁は可能か? 聴勁の功夫の練習は、初めは両手を用いて行う。これを長く長く練習していると全身で聴勁ができるようになる。どのような部位であっても「粘」をもって触れれば、そこに感覚を得て相手の勁を知ることができるようになる。そうであるから掌であっても、拳であっても我が身にそれらが触れれば、すべからくその力を化して相手の重心を失わせることができるように... ...続きを見る

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2017/02/15 12:00
古道203
陳微明『太極拳答問』を読む(45) 3−8試合をする時には、結局は体の大きい、力のある方が有利になるのか? 試合をする時でも、戦争の時でも、勝つ要素の多い方が少ない方よりも有利なものである。また勝つ要素を考えないで、ただ蛮勇によるだけではけっして勝つことはできない。試合の時でも、多くの「意」を使うことができれば勝てるが、そうでなければ勝つことはできない。もし、相手がどのような力の使い方をするのかを完全に知ることができれば、こちらは「意」を虚実自在に用いることができる。一つの「意」を用いる時よ... ...続きを見る

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2017/02/14 12:00
古道202
陳微明『太極拳答問』を読む(44) 三は「ショウ(髪の友が松)」である。これは自分の勁を滞りなく使うことである。これには「静」が含まれている。 四は「放」である。勁を放つ時には、足腰が適正な位置になければならない。ここには「心身の統一(整)」が含まれている。 以上は、李亦ヨ先生の伝えるところのものであり、ひじょうに重要なことである。 ...続きを見る

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2017/02/13 11:59
古道201
陳微明『太極拳答問』を読む(43) さらに撒放秘訣に次の四つがある。一に「ケイ(敬の下が手)」である。「ケイ」は相手の力を借りることであり、そこには「精妙な動き(霊)」が含まれている。 二は「引」である。これは相手を近くに導いて、こちらは力を蓄えることである。この中には「余計な動きをしないこと(欽)」が含まれている。 ...続きを見る

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2017/02/12 11:59
古道200
陳微明『太極拳答問』を読む(42) 気勢は自在でなければならない。もっぱら攻撃だけを行うのではない。心身は協調していなければならない。力は相手の力を利用する。気は背中より発せられるとされるが、これはどういうことなのか。気を下に沈めるには、両肩が挙がらないようにして背中を緩める。そうすると気は腰間に沈むのである。これは気が上から下へと向かう流れであり、つまりは「合」である。腰から背中、そして両腕、指へと流れるのは下から上へと向かう流れであり、これが「開」である。「合」で相手に合わせ、「開で力を発... ...続きを見る

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2017/02/11 11:59
古道199
陳微明『太極拳答問』を読む(41) 五は「神聚」である。ここまでの一から四までの全ては、この「神聚」に尽きることである。「神聚」とはつまり「気のまとまり(一気鼓鋳)」であり「心身の活性化(練気帰神)」であり「自在な心身の働き(気勢騰ナ)」「心身の合一(精神貫注)」「心身の協調(開合有数)」「心身の適切な変化(虚実清楚)」なのである。左が虚であれば右は実となり、右が虚であれば左は実となる〔これは自分自身のおける虚実である〕。ただ「虚」というのは、まったく力を入れないということではない〔思うにここ... ...続きを見る

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2017/02/10 11:58
古道198
陳微明『太極拳答問』を読む(40) 四は「勁整」である。全身の勁を練ってまとまりのあるものとする。虚実を明らかにする。発勁にはその発するところがある。それは脚根である。腰が中心となり、指に及ぶのである。勁は背中より発する。これは心身の動きと一致したものである。相手の勁がまさに発せられようとした時、こちらの勁は既に相手の勁を捉えている。それは相手の動きに遅れるものでもないし、先んじるものでもない。それは皮と、それを燃やす火のようであり、泉と泉に涌く水のようでもある。前進、後退は全く乱れることなく... ...続きを見る

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2017/02/09 11:58
古道197
陳微明『太極拳答問』を読む(39) 三は「気斂」である。気勢が散漫であれば、まったく力を蓄えることができない。身法もまとまりを欠くことになる。よく気を収斂させて骨に入れる。そうなると呼吸は滞りなく、全身が協調する。「吸」は合であり、蓄となる。「呼」は開であり、発となる(思うに先天の呼吸は「体」であり、「吸」は「開」となり、「呼」は「合」となる。後天の呼吸は「用」であり、「吸」は「合」であり、「呼」は「開」となる)。 おおよそ息が「吸」であれば、自然に気は上がる。相手の起こりをとらえることがで... ...続きを見る

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2017/02/08 11:58
古道196
陳微明『太極拳答問』を読む(38) もし、協調しないところがあれば、身法にまとまりがなく、力を発することはできない。こうしたことの問題は足腰にあるものである。先ずは心により体を使う。ただ、この段階では相手に付いていくことはできるが、相手を動かすことはできない。この後に体が心を動かすことができるようになる。そうなれば相手を動かすことができる。自分が相手を動かそうとするとうまく行かない。相手によって動かすと滞りなく行うことができる。相手によって、こちらは過不足なく動くのであるが、この時には相手の勁... ...続きを見る

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2017/02/07 11:57
古道195
陳微明『太極拳答問』を読む(37) 二は「身霊」である。身体の動きが円滑でなければ、思うように動くことはできない。そうであるから「身霊」が大切なのである。動きは、けっして形だけになってはならない。相手の力が、こちらの膚に達した時には、こちらの意は既に相手の骨にまで達していなければならない。これは手を交えた時に直ぐに感じることができる(一気貫穿)のである。左に重心があれば、左を虚として右で動く。右に重心があれば、右は虚として左で動くのである。気は車輪の如くであり、全身が協調していなければならない... ...続きを見る

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2017/02/06 11:57
古道194
陳微明『太極拳答問』を読む(36) 重要なことは、途切れることなくあらゆる処に心を用いるということである。相手の動きと離れることなく、逆らうこともない中でその動きを捉えるのである。このような練習を一年半もすれば、適正に体が動くようになる。これは意を用いるのであって、武術的な力を使うのではない。こうして長く練習していると、もっぱら相手を制し、相手に制せられることはなくなるのである。 ...続きを見る

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2017/02/05 11:57
古道193
陳微明『太極拳答問』を読む(35) 相手が力を出してくるのであれば、自分も力を出す。ただ自分の力は相手に先んじて出すのである。相手が力を出してこない場合でも、こちらは力を出す。それには、こちらが意を先に用いるのである〔この部分の言い方は妥当ではないようである。相手が力を出して来ても、出さない内であっても、すべからくこちらの意は相手の動きに先んじて用いられるのである)。 ...続きを見る

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2017/02/04 11:56
古道192
陳微明『太極拳答問』を読む(34) 3−8「太極拳論」の他に、優れた理論はあるのか? 李亦ヨ先生の「五字訣」がある。「太極拳論」の意図することを、ひじょうによく示している。以下にそれを記しておこう。 李亦ヨ先生の「五字訣」は、大変に深い拳論となっている。以下はその詳細である。 一は「心静」であること。心に静が得られていなければ、集中(専一)することができない。腕を挙げるにしても、「心静」でなけば前後左右どのように挙げたら良いのか分からないであろう。すべからく自分の動きを正しく把握すること... ...続きを見る

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2017/02/03 11:56
古道191
陳微明『太極拳答問』を読む(33) 3−7太極拳の推手の理論の中心となるのは何か? 王宗岳先生の「太極拳論」が中心となる。もし、「太極拳論」に書いてあることと違うことがあれば、それは間違いであると断言して良いであろう。 ...続きを見る

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2017/02/02 11:56
古道190
陳微明『太極拳答問』を読む(32) 3−6推手ではまったく力を使わないのであるが、もし敵がひじょうに強い力で激しく攻撃をしてきたときには、どうしたらよいのか? 推手では力を使わないとされているが、数年の修練をしていると、自然に一種のホウ勁なるものが得られる。この種のホウ勁といわれるものは、意図的な力を使うのではない。それでいて敵の力はホウにより攻め込むことができなくなるのである。初心者はショウ開の状態で練習すること数年で、全身にまったくむだな力みが無くなると、ホウ勁を使った推手の練習ができる... ...続きを見る

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2017/02/01 11:18
古道189
陳微明『太極拳答問』を読む(31) 3−5「ホウ、リ、セイ、アン、採、レツ、肘、靠」の八法の他に、どのような法があるのか? 他に聞いているところでは「抓筋、按脈、閉穴、截膜、キン拿、ダン放、トウソ、切錯」などの諸法があるらしい。私はただ、そうしたものがあると聞いているだけで、その用法は知らない。 ...続きを見る

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2017/01/31 11:18
古道188
陳微明『太極拳答問』を読む(30) 3−4大リはどうして練るのか? 大リは、つまりは「採、レツ、肘、靠」の四隅の練習である。「採」とは敵の手を取って変化をさせなくすることである。「レツ」とは掌を用いて行うもので、敵が勁を放とうとした時にそれを断つのである。「肘」は肘を使うことであり、「靠」は肩を使うことである。大リの歩法は、より大きく速い。両足に勁がなければ速く円滑な変化はできない。 ...続きを見る

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2017/01/30 11:17
古道187
陳微明『太極拳答問』を読む(29) 3−3定歩の推手と、活歩の推手はどちらが重要なのか? 定歩の推手は腰を練るものである。もし、腰をスムース(霊活)に使うことができたならば、充分に相手の勁を化することができるようになる。腰を練るために歩法は使わないのである。活歩の推手は腰と歩をともに練るものである。もし、敵がひじょうに速く攻撃をしてきたような場合には、歩法を使って、それを避けるひまがないかもしれない。そうした時には腰を使う。そうすることで歩法も活きてくるのである。腰に歩を用いればより速く変化... ...続きを見る

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2017/01/29 11:17
古道186
陳微明『太極拳答問』を読む(28) (承前)また、「セイ」は前に押すのであるが、あるいは上に腕を翻すこともある。あるいは下に翻すこともある。これらは等しく敵の意識の働きによって変化をすることになる。 例えば「ホウ」の一字には「直のホウ」もあれば「横のホウ」あるいは「上のホウ」「下のホウ」もある。これは敵の腕や手によく粘りついて時に相手の動きに応じて方向を変えるのである。 以上をまとめると、敵に対しては自分の腕を使うにしても、体を使うにしても、一定の攻撃点を決めて勁を放ってはいけない、という... ...続きを見る

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2017/01/28 11:17
古道185
陳微明『太極拳答問』を読む(27) 3−2ホウ、リ、セイ、アンの四字には、無窮の変化が含まれているのか? ホウ、リ、セイ、アンの四字に含まれている意味は尽きることのないものである。 例えば「アン」の一字には「軽やかに行う」「体が浮くことなく行う」「左は実で、右が虚で行う」「左が虚で右が実で行う」「両手が開くという意識で行う」「両手が合わさるという意識で行う」という意味がある。 例えば「セイ」の一字には「正セイ」「偏セイ」「肘を加えたセイ」「手を換えるセイ」がある。セイでは両腕のいろいろな... ...続きを見る

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2017/01/27 11:16
古道184
陳微明『太極拳答問』を読む(26) 3、太極拳の推手 3−1初心者が推手をする時に力を使っても構わないか? 使ってはならない。「打手歌」には「ホウ、リ、セイ、アンは全て正しいのである」とある。このホウ、リ、セイ、アンをよく理解しなければならない。セイとアンは前足に体重を置き、ホウとリは後足に置くのである。基本に準じて毎日数百または数千回、ホウ、リ、セイ、アンを練れば、自然に両足に根が生まれてくる。腰はスムース(霊活)に動くようになる。一年の後に推手をして、勁を探ってみる(勁を探るのには決ま... ...続きを見る

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2017/01/26 11:16
古道183
陳微明『太極拳答問』を読む(25) 2−21昔の人がどのように考えて拳を練っていたのかは分からいが、聞いているようなことはあるのか? 楊少侯先生は、「楊露禅老先生が単鞭下勢を練る時に、銭一枚を地面に置いて、口でくわえることができた」と言われていた。また、肩で相手の膝に当てることができたという。このように低く練習をしていたのである。楊班侯氏が拳を練る時には、悦んだり冷笑したりする一方で、急に怒ったように掛け声を発することがあった。これはいわゆる「喜怒を帯びる」ということであり、功夫が深くなれば... ...続きを見る

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2017/01/25 11:16
古道182
陳微明『太極拳答問』を読む(24) 2−20太極拳の動作で、例えばロウ膝ヨウ歩などは、手を後方へ大きく回してから、前方を打つが、このような迂遠な動きで、どうして敵を打つことができるのか? 太極拳の各動作には、等しく円圏の動きが伴っている。これにより全身をショウ開して動きを転ずるのである。つまり、これは体を練るための動作なのである。もし、実戦的な用法を求めるとすれば、その形のままということにはいかない。例えば三百六十度の渾円の体を用いるとしても、実際は一度や半度を使うのである。しかし、体を練る... ...続きを見る

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2017/01/24 11:15
古道181
陳微明『太極拳答問』を読む(23) 2−19あなたが加えた長拳に、反対の動きが入っているのは、どうしてか? もし、功夫ということから言えば、太極拳を練るだけで充分である。長拳を練る必要はない。私は運動ということからして、左と右が等しく発達した方が良いと考えている。そうであるから反対の動きを入れたのである。長拳は、体育運動の観点から、それを見て頂けるとありがたい。 ...続きを見る

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2017/01/23 18:11
古道180
陳微明『太極拳答問』を読む(22) 2−18楊澄甫先生の現在、教えている動作と、『太極拳術』に載っている動作では、違っている部分もあるがどうしてか? 楊澄甫先生の現在の動作は、二回目の琵琶式の後にロウ膝ヨウ歩が入り、白蛇吐信の後に少し体を引いている。これはヘイ身錘の後に搬ラン錘に移る時、体を引くのと同じである。こうした変更は動作を改めたという程のものではない。もし広いところで練習をするのであれば、ロウ膝ヨウ歩を多くしても構わない。左ロウ膝ヨウ歩だけではなく、右ロウ膝ヨウ歩も入れて増やせば良い... ...続きを見る

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2017/01/22 18:10
古道179
陳微明『太極拳答問』を読む(21) 2−17書かれた『太極拳術』は基準となるものなのか? あえて自分がそうしたことを言うことはしまい。しかし、私は楊澄甫先生より太極拳を学び、動作についても、充分な教えを受けた。自著を書いた時にも、それぞれの動作について五回も六回も先生に確認をして書いたものである。楊澄甫先生は嫌がられることもなく、教えて下さった。そうであるから『太極拳術』は先生の代わりに書いたようなものなのである。 ...続きを見る

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2017/01/21 18:10
古道178
陳微明『太極拳答問』を読む(20) 2−16太極拳には七十余りの動きがあるが、その順序は決まっていて、そうでなければならないのであろうか? 順序は昔から伝えられているものである。また、そのつながりは非常に自然である。そうであるから修行者は順序を守るのが良いであろう。例えれば、それは一篇の文学作品のようなものである。一字を加えても、一字を削るのもよろしくない。しかし、一字一句には無限の味わいがある。太極拳も同様である。もし、順序を入れ替えたりしたら、はたしてそれは自然な動きになるであろうか? ... ...続きを見る

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2017/01/20 18:10
古道177
陳微明『太極拳答問』を読む(19) 2−15太極拳を練習する時の神気のあり方はどのようであれば良いのか? すべからく「神凝」「気静」「中正」「安舒」「従容」「大雅」「綿綿不断」を基準とすれば良い。軽やかに動いているように見えても、実は沈重を極めている。おおいに動いているようでも、安静を極めている。およそ太極拳において、ただ軽やかな動きであったり、猛々しいだけの動きであったりするのは、いまだ太極拳の詳しい教えを知らないためであろう。 ...続きを見る

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2017/01/19 18:09
古道176
陳微明『太極拳答問』を読む(13) 2−8老師は一つのことを教えているのに、弟子の姿勢に良いところや良くないところが生じているのはどうしてか? 良くないところというのは、硬いところであるが、それは力が入り過ぎているためである。良いところは、柔らかいところで、よけいな力を使っていないところである。たとえば鋳物を作る時には、必ず金属を熱して溶かさなければならない。そうしないと思ったような形にすることはできないわけである。金属を溶かせば、丸い形でも、四角でも思ったようにすることができるわけである。... ...続きを見る

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2017/01/18 10:57
古道175
陳微明『太極拳答問』を読む(12) 2−7ある人が「太極拳の練習には力が必要である」と言っていたが、これは本当であろうか? 「太極拳論」には「柔軟を極め、しかる後に堅剛を極める」とある。太極拳の堅剛な内勁は「柔軟、ショウ開から得られるものなのである。形を柔軟ショウ開の上にも、柔軟ショウ開で練ることで得られるのである。これが得られれば内勁を育てて、速く使うことができるようになる。しかし、少しでもよけいな力が入ると、内勁を育てる上での障害となる。つまり「ショウ開」となれば、両腕が重く沈み込むこと... ...続きを見る

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2017/01/17 10:57
古道174
陳微明『太極拳答問』を読む(11) 2−6ある人が「形はあまり多く練習するべきではない、推手をよく練習すれば功を深めることができる」と言っているが、これは正しいのであろうか? およそ形を軽視する者は、形の深い意味が分かっていないからである。形はもっとも重要な基礎となる。長くこれを練っていれば、その身体の重いことは泰山のようであり、軽いのは羽毛のようになる、とされている。もし、形を練ることなく、推手ばかりをやっても、身体の安定が得られないので、簡単に倒されてしまうことになる。 〔両儀老人曰く... ...続きを見る

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2017/01/16 10:56
古道173
陳微明『太極拳答問』を読む(10) 2−5ある人は「形をあまりに低く練習してはならない」と言いますが、これは正しいのであろうか? 形を低く行えば、歩幅も大きくなり、腰も大きく動くものである。高い姿勢であれば歩幅は小さくなり、腰の動きも小さくなる。姿勢の高い、低いは膝を曲げる角度によるが、そのバランスが重要である。もし、低すぎれば、重心が落ちすぎて、動きが遅くなる。虚実がかえって不分明となってしまうのである。「太極拳論」には「先に展開を求め、後に緊ソウを求める」とある。もし、功夫が純粋に熟して... ...続きを見る

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2017/01/15 10:56
古道172
陳微明『太極拳答問』を読む(9) 2−4ある人は「歩幅があまりに狭いのはよくない。あまりに狭いと足の入れ替えがうまくいかない」と言うが、これは正しいのであろうか? 間違いではない。ただ初心者が練習をする時には、歩幅をあまり狭くしない姿勢で行うべきである。曲げた足の膝と、足先は同じ向きにする。こうして腰をゆるやかに安定させて、前後や左右の回転ができるようにするのである。歩幅があまりに狭いと、腰をよく動かすことができなくなってしまう。強い攻撃を受けた時には、それを流す余地がなくなって、退くことし... ...続きを見る

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2017/01/14 10:56
古道171
陳微明『太極拳答問』を読む(8) 2−3それでは太極拳の正しい形とはどういったものなのであろうか? なにをもって正しいとすることを決めることができるのであろうか? 王宗岳氏の言う「立身はすべからく中正安舒たるべし」が基準となる。「中正」とは、偏らないということである。「安舒」とは、自然でゆるやか、緊張したり、力んだりしないことである。 私が編んだ「太極拳術の十要」も基準となろう。例えば頭部にあって虚霊頂勁が得られていなかったならば、身体は右や左に傾いてしまうであろう。胸部に力が入り過ぎれば... ...続きを見る

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2017/01/13 10:55
古道170
陳微明『太極拳答問』を読む(7) 2−2北京で練られている太極拳は、全て楊家の伝えたものである。しかし、形に違いがあるのはどうしてなのであろうか? 確かに形に違いが見られるところがある。しかし、内実に変わりはない。違いが生まれる原因としては、次の二つが考えられる。 一つは、かつては師弟の間が厳格であったので、もし弟子が疑問に思うことがあったとしても、なかなか質問することができなかったことがある。そうしたこともあって理解が充分ではない時に、正しくない形を覚えてしまった、こうしたことも原因のひ... ...続きを見る

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2017/01/12 10:55
古道169
陳微明『太極拳答問』を読む(11) 2−6ある人が「形はあまり多く練習するべきではない、推手をよく練習すれば功を深めることができる」と言っているが、これは正しいのであろうか? およそ形を軽視する者は、形の深い意味が分かっていないからである。形はもっとも重要な基礎となる。長くこれを練っていれば、その身体の重いことは泰山のようであり、軽いのは羽毛のようになる、とされている。もし、形を練ることなく、推手ばかりをやっても、身体の安定が得られないので、簡単に倒されてしまうことになる。 〔両儀老人曰く... ...続きを見る

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2017/01/11 09:52
古道168
陳微明『太極拳答問』を読む(10) 2−5ある人は「形をあまりに低く練習してはならない」と言いますが、これは正しいのであろうか? 形を低く行えば、歩幅も大きくなり、腰も大きく動くものである。高い姿勢であれば歩幅は小さくなり、腰の動きも小さくなる。姿勢の高い、低いは膝を曲げる角度によるが、そのバランスが重要である。もし、低すぎれば、重心が落ちすぎて、動きが遅くなる。虚実がかえって不分明となってしまうのである。「太極拳論」には「先に展開を求め、後に緊ソウを求める」とある。もし、功夫が純粋に熟して... ...続きを見る

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2017/01/10 09:51
古道167
陳微明『太極拳答問』を読む(9) 2−4ある人は「歩幅があまりに狭いのはよくない。あまりに狭いと足の入れ替えがうまくいかない」と言うが、これは正しいのであろうか? 間違いではない。ただ初心者が練習をする時には、歩幅をあまり狭くしない姿勢で行うべきである。曲げた足の膝と、足先は同じ向きにする。こうして腰をゆるやかに安定させて、前後や左右の回転ができるようにするのである。歩幅があまりに狭いと、腰をよく動かすことができなくなってしまう。強い攻撃を受けた時には、それを流す余地がなくなって、退くことし... ...続きを見る

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2017/01/09 09:51
古道166
陳微明『太極拳答問』を読む(8) 2−3それでは太極拳の正しい形とはどういったものなのであろうか? なにをもって正しいとすることを決めることができるのであろうか? 王宗岳氏の言う「立身はすべからく中正安舒たるべし」が基準となる。「中正」とは、偏らないということである。「安舒」とは、自然でゆるやか、緊張したり、力んだりしないことである。 私が編んだ「太極拳術の十要」も基準となろう。例えば頭部にあって虚霊頂勁が得られていなかったならば、身体は右や左に傾いてしまうであろう。胸部に力が入り過ぎれば... ...続きを見る

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2017/01/08 09:51
古道165
陳微明『太極拳答問』を読む(7) 2−2北京で練られている太極拳は、全て楊家の伝えたものである。しかし、形に違いがあるのはどうしてなのであろうか? 確かに形に違いが見られるところがある。しかし、内実に変わりはない。違いが生まれる原因としては、次の二つが考えられる。 一つは、かつては師弟の間が厳格であったので、もし弟子が疑問に思うことがあったとしても、なかなか質問することができなかったことがある。そうしたこともあって理解が充分ではない時に、正しくない形を覚えてしまった、こうしたことも原因のひ... ...続きを見る

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2017/01/07 09:50
古道164
陳微明『太極拳答問』を読む(6) 2、太極拳の形 2−1太極拳はラン雀尾から合太極まで、七十余りの形がある。これは張三豊の伝えたそのままなのであろうか。変わったところがあるのであろうか? 聞くところによれば、古い時代の太極拳は連続した形ではなかったようである。いつ頃かは分からないが、形をつないで一気に練るようになったらしい。私見によると、それは大体において王宗岳氏に始まるものと思われる。王宗岳氏の「太極拳論」には、それぞれの形の名称が記されており、かつまたそれらをひとつのものとしている。王... ...続きを見る

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2017/01/06 09:50
古道163
陳微明『太極拳答問』を読む(5) 1−5不肖生の『江湖奇侠伝』には、楊家のことが書いてある。ひどいことが書いてあるが、その中の班侯のことは、本当のことなのであろうか? これはすべて伝聞によるものであって、まったくあてにならない。古くから文人なるものは自分がすべてを分かっているように思っているものである。ましてや学問のない、字も知らないような武術家をどうして重要と考えるであろうか。名前が上がれば、妬む者も増えるものである。いろいろな偽りのうわさは、往々にして同門の後人から出るものである。また小... ...続きを見る

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2017/01/05 12:09
古道162
陳微明『太極拳答問』を読む(4) 1−4河南の陳長興の弟子は、楊露禅のほかに有名な人がおられるのであろうか? 他には河南の懐慶府の陳清平がいる。これも陳長興氏の伝を受け継いでいる。この伝は武ウ譲がいる。武ウ譲の伝は李亦ヨが受け継ぎ、李亦ヨの伝はカク為禎が受け継ぎ、カクの伝は孫禄堂氏が受け継いでいる。 〔楊露禅に太極拳を学んだ武ウ譲は、さらに陳家の教えを訪ねた。しかし、陳家の拳は通背拳をベースとして独自に形成された武術であり、太極拳とは別であることを知ったためであろう、武家の太極拳は陳家の影... ...続きを見る

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2017/01/04 12:08
古道161
陳微明『太極拳答問』を読む(3) 1−3太極拳は、張三豊祖師の一系の他に伝えられた系統はあるのでしょうか? 四つの流派がある。それは唐の許宣平から伝えるもので、「八字歌」「心会論」「周身大用論」「十六関要訣「功用歌」などが伝えられており、宋遠橋がこれを受け継いでいる。 夫子李はこれを兪氏に伝え、更に兪清慧、兪一誠、兪蓮舟、兪岱岩に伝えた。 韓挟月は程霊洗に伝え、程ヒツ〔王必〕に伝えた。この系統には「用功五掌」「四性帰源歌」などが伝えられている。 殷利亨は胡鏡子に伝え、胡鏡子は宋仲殊に伝... ...続きを見る

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2017/01/03 12:08
古道160
陳微明『太極拳答問』を読む(2) 1−2『三豊集』には、いくつかの伝承があり、これが関中の王宗に至ったとする。王宗と王宗岳は、同じ人物なのか、違った人物なのか? 王宗は陝西の人であり、王宗岳は山西の人である。これを同一人物と見るのは誤りである。また王宗岳氏はおおよそ清初の人であり、王宗は元末から明初の人である。 〔両儀老人曰く、『三豊集』とは、著明な道士の張三豊関係の資料を集めた本である。張三豊は著明であるが、その張三豊と、太極拳を創始した張三豊が近世以降、混同される傾向にあったようである... ...続きを見る

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2017/01/02 12:08
古道159
陳微明『太極拳答問』を読む(1) 1、太極拳の源流など 1−1太極拳は、けっきょく張三豊が創始したのであろうかか? 『寧波府誌』には拳術について述べたところがある。太極拳とは記されていないが、太極拳と共通する部分がたいへんに多い。黄黎洲が記した『王征南墓誌銘』には、張三豊の創始したことを詳しく書いてある。張三豊の後の伝承者としては、寧波の葉継美などがいる。そうであるから『寧波府誌』に記載があるわけである。こうしたことからして太極拳が張三豊の創始になることは疑いのないことである。 〔両儀老... ...続きを見る

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2017/01/01 11:48
古道158
太極拳秘伝・採腿(7) 陳炎林は「坐勁」について、「坐勁がなければ、もし相手を蹴ろうとしても、蹴る前から身体が浮き上がってしまう。蹴る前から自分で不安定になってしまうのである」としている。そして、採腿の練習については、「これを長く練習していれば、よく全身の協調のとれた動きが得られる」とした上で「その他に腰や腿に坐勁が生まれてくる」と教えている。つまり坐勁とは、全身が協調、統一して動くこととはまた別のレベルにあるものなのである。本来の太極拳は軽妙な身法を重視している。拳訣においても「浮」を戒め、... ...続きを見る

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2016/12/31 16:17
古道157
太極拳秘伝・採腿(6) 陳炎林の示している採腿の練習法は、形意拳とほぼ同じである。「坐勁」は太極拳だけではなく、形意拳、八卦拳においても基本となるのである。 より厳密にいうなら、双辺太極拳の採脚の身法の勢い(身勢)は、形意拳よりも、陳炎林の解説しているものに近いとすることができるように思われる。双辺のは基本的には太極拳(楊澄甫伝)の勢をもって統一されているその中に呉家や陳家、形意拳などの動きが入る。双辺は「太極拳とは何か」「武術とはなにか」を考える上で、ひじょうにおもしろい研究材料である。理... ...続きを見る

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2016/12/30 16:16
古道156
太極拳秘伝・採腿(5) 陳炎林は特に採腿の単式練習の方法を述べている。右足で蹴る場合には、右手で相手を後ろに引くようにして、左手は伸ばして相手の顔面を掌で打つような形にする。蹴ると同時に左足の膝を少し曲げて、重心を左足に落とす、とある。この重心を落とすのが「坐勁」である。なぜ採腿が重要な技であるのか、それは「坐勁」を使うからに他ならない。「坐勁」こそが、太極拳における沈身(沈墜勁)の核心なのである。 ...続きを見る

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2016/12/29 16:16
古道155
太極拳秘伝・採腿(4) 本来の太極拳である行功においては、足を高くあげる動作がある。これは採腿を明らかに練るためものである。しかし、この動きは攻防において危険であるのと、修練にあっては運動量も多くなるので楊澄甫の新架においては、隠されることとなったのである。しかし、楊澄甫の弟子であっても、董英傑などは、採腿を練る套路を重視していた。これは南方に太極拳を普及させた董英傑自身の経歴と関係があるとされる。北方の北京で広まった太極拳は次第に南の方にも伝えられて行くのであるが、時にはそれぞれの土地で試合... ...続きを見る

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2016/12/28 16:16
古道154
太極拳秘伝・採腿(3) さて採腿は太極拳のどこにあるのであろうか。それは歩法に含まれているのである。そうであるから、ほぼすべての技に採腿は暗蔵されているのである。「実に多い」のである。陳炎林は最初に紹介したこの「太極拳にあって採腿を用いられることは実に多い」の言に続けて、「ただ、太極拳を教える者は採腿のことを明らかにするのを願わないものである。それは適切でない者が学ぶのを恐れてのことである」としている。採腿は強力な技であるから、好ましくない人物が、それを知って悪用されることを恐れて、指導者はな... ...続きを見る

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2016/12/27 16:15
古道153
太極拳秘伝・採腿(2) 陳炎林は採腿をどのように説明しているのであろうか。採腿は翅腿と比較して説明がなされている。まずは「翅腿」であるが「足先、または足心、足側をして人を蹴る」ものとする。太極拳の実際の技でいえば、足先を使うのは分脚(少林拳の分脚のように足の甲を使うのではない)、足心を使うのはトウ脚、足側を使うのは擺脚ということになる。一方、「採脚」は「足心を使って、相手の膝頭または向う脛を踏むように蹴る」とある。これだけを見ると、形意拳の龍形や崩拳の回身式の腿法と同じであり、太極拳にはない腿... ...続きを見る

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2016/12/26 16:15
古道152
太極拳秘伝・採腿(1) 太極拳の名著の一つである陳炎林の『太極拳刀剣桿散手合編』には、「採腿」の項が設けられていて、そこには「およそ採腿を使えば、相手は死んでしまうであろう。そうでなければ大けがを負うことになろう」との説明がなされている。つまり、採腿は太極拳におけるひじょうに強力な技であるとしているわけである。加えて「太極拳にあって採腿を用いられることは実に多い」とも記している。 しかし、太極拳の套路には採腿なる技は出てこない。ただ、双辺太極拳には採脚があるが、それも九十九ある套路の中で、採... ...続きを見る

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2016/12/25 16:15
古道151
鄭子太極拳と抜き合気(5) 簡易式で示された「抜き合気」の明確化の流れは、実は新架において、既に試みられていることでもあった。新架は老架に比べれば「抜き合気」の身法は、より明確に提示されている。およそ実戦で「抜き合気」を使おうとする場合には、その身法は小さい方が有利である。しかし、小さい身法は習得が難しい。このあたりのことを、どのようにして教えて行けば良いのか、といったことの試みが簡易式や新架に見られるわけである。新架、老架における身法については、詳述をしない。ただ二十四式との違いをよく観察す... ...続きを見る

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2016/12/24 19:17
古道150
鄭子太極拳と抜き合気(4) ひとつの動作が終わって、後ろに身を引くことは、二十四式でも見ることができる。しかし、二十四式の身法は「抜き合気」の観点から行われているのではない。あの身法では「抜き合気」はできない。もし、「抜き合気」を行おうとするのであれば、必ず両腕を下にして、完全なリラックス状態に入らなければならない。ちなみに二十四式の身法は、形意拳の蓄発の間合いと同じである。形意拳では、必ず身を後ろに引いて「蓄」となってから勁を発する。太極拳では後ろに身を引いて「蓄」をすることはしない。新架や... ...続きを見る

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2016/12/23 19:16
古道149
鄭子太極拳と抜き合気(3) 「抜き合気」とは、大東流幸道派でよく言われるテクニックである。テクニックとはいっても、ようするに間合いを操る方法であり、いうならば心法の要素が大きいということができる。ひとつの例を示させば相手が腕をとってきた時に、こちらは意図的に腕に力を込める。その状態を相手が充分、認識したところで、急に力を抜く、このギャップに相手はとまどうのである。こちらは、そのすきを見て技を掛ける。太極拳では、殊更に力を入れることはしないが、相手の剛に対して、こちらが柔となることで、間合いを狂... ...続きを見る

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2016/12/22 19:16
古道148
鄭子太極拳と抜き合気(2) ただ、極秘伝とはいっても、套路の中には含まれているのであるから、新架や老架を学習したならば、誰でもこの「抜き合気」の教えを受けていることにはなろう。「秘伝は眉の如し」と言われるように、ごく近くにあっても見ること、知ることのできないものとされている。本来的に太極拳の秘伝や極秘伝は、それを殊更に教えられなくても、自然に体得できている、といった学び方が理想的なのである。つまり太極拳の秘伝や極秘伝、あるいは大極秘伝であっても、それらは全て本来、人が持っている心身の動きである... ...続きを見る

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2016/12/21 19:16
古道147
鄭子太極拳と抜き合気(1) 簡易式(鄭曼青伝)は、新架(楊澄甫伝)と老架(張三豊伝)と大きく異なる身法がある。それは、ひとつの動作ごとに後足に体重を移す、という身法である。この身法は、太極拳における「抜き合気」を修練しようとするものである。「抜き合気」そのものは、もちろん新架や老架にもある。しかし、それらは微細な動きとして隠されている。ある意味で、古い時代の極秘伝を、鄭子では公開している、ということができるのである。 ...続きを見る

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2016/12/20 19:15
古道146
『兵法家伝書』と『五輪書』(4) 『兵法家伝書』『五輪書』でともになされているのは、個人戦の抽象化である。個人の斬りあいを抽象化することで、普遍性を得ようとしているのである。攻防の理が、日常生活や個人の闘い以外でも活かせるとするのである。『五輪書』では個人戦の理は、集団戦でも使えるという。そして、とらわれのない心であらゆる要素を統合すれば、どのような場面でも勝つことができる、と教えている。一方、『兵法家伝書』では、負けないことを第一として、負けないためには、闘いそのものが生まれなければ良いと教... ...続きを見る

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2016/12/19 19:15
古道145
『兵法家伝書』と『五輪書』(3) 新陰流は、幕府の保護もあったが、各地に広まったのに対して、武蔵の二天一流がほとんど広まらなかった原因のひとつが、日本的かどうかにあったと思われる。安土桃山時代には南蛮貿易も盛んであったが、朝鮮との関係も深く、武蔵の二刀流の発想も朝鮮半島から伝わった双剣、双子刀の操法がヒントになっているとの説もある。ほかにも侘茶の千利休が考えた茶室は朝鮮の民家に近いとされるし、茶碗も朝鮮半島で使われていた日常雑器が珍重されたのである。近世における朝鮮文化の受容についてはより大き... ...続きを見る

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2016/12/18 19:15
古道144
『兵法家伝書』と『五輪書』(2) ただ、この二つの文献を見た場合に決定的な違いがある。それは『兵法家伝書』が、負けないことを主眼としているのに対して、『五輪書』が勝つことをベースとしている点である。『五輪書』は、勝つことをベースとしているために欧米でも分かりやすく、受け入れられる要素を持っているのであろう。日本の経営は「座(同業者組合)」を基本とするものであった。かつて金融業界で「護送船団」方式といわれたような経営方法は、基本的にはあらゆる業界に見られたのである。それは過度な競争を良しとしない... ...続きを見る

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2016/12/17 19:14
古道143
『兵法家伝書』と『五輪書』(1) 『兵法家伝書』と『五輪書』は、ともに近世初頭に著された優れた武術伝書である。日本武術史上に特筆される二大伝書が、ほぼ同時期に著されたのは実に興味深いことである。とりわけ『五輪書』は海外にも人気が高く、ビジネス書としての評価も高いとされる。『孫子』などと並んで、ビジネス戦略に勝つヒントが得られるというのである。 ...続きを見る

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2016/12/16 19:14
古道142
シンボルとしての『兵法家伝書』(3) 新陰流では、最後に「無刀」を説いている。これは刀を持たない状態を想定している。よく柔術の技のように説明されるが、そうしたことに限定してしまっては無刀の意義を見失ってしまうことになろう。無刀とは「攻防を超える」イメージを象徴するものなのである。絶対的な勝利は、攻防に勝つことではなく、攻防そのものを「無」とすることにあることを新陰流では気づいていたのである。 刀を抜いてから勝つのが、殺人刀である。抜刀する前の人間関係において勝とうとするのが、活人剣である。そ... ...続きを見る

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2016/12/15 16:01
古道141
シンボルとしての『兵法家伝書』(2) ここで注目すべきは刀と剣の表記である。人を殺(あや)める時には「刀」が使われ、最後の無刀においても「刀」が使われている。武器としての陰陽を考えた場合に、刀は陰陽がそろっていない。剣において初めて陰陽がそろうことになる。弥生時代から祭器とされたのは剣であった。また三種の神器においても剣がそのひとつとなっている。剣に比べて片方だけしか刃がついていない刀は、ただ相手を斬るだけのものとされるのである。これに対して陰陽のそろっている剣は、殺とともに、その反対でもある... ...続きを見る

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2016/12/14 16:00
古道140
シンボルとしての『兵法家伝書』(1) 新陰流の柳生宗矩が著した書物に『兵法家伝書』がある。そこでは殺人刀、活人剣、そして無刀が説かれている。これらの理念が、新陰流で必ずしも具体的な技として完成したとはいえない。そこで、ここでは一旦、新陰流から離れて、「殺人刀、活人剣、無刀」をひとつのシンボルとしてとらえ、新陰流のめざしたものについて一考したいと思う。 ...続きを見る

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2016/12/13 16:00
古道139
武術と護身術(6) つまり武術が護身を基本としている、ということはその成り立ちを理論的に考えれば、まさにそうなるのである。そうであるのに、相手を倒すことをベースに武術を考えると、そこに矛盾が生まれることになるわけである。護身術としての武術は、闘いに勝つことよりも、闘いそのものを生じさせないことを目的とするようになった。ここに絶対不敗の護身術としての武術が生まれるのである。 ...続きを見る

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2016/12/12 16:00
古道138
武術と護身術(5) 武術の流派は、その技術によって一つのシステムを構築しているわけであるが、そうしたものが生まれる背景には闘いをコントロールしようとする意図があった。なぜ、闘いをコントロールする必要があるのか。それは相手に社会通念上、適度なダメージを与えるためである。なぜ、社会通念上、適度なダメージでなければならないのか。それは自分がより良く生きていくためである。ぶつかってきた相手を殺して殺人罪に問われたのでは、武術を学ぶ意味がない、ということになろう。 ...続きを見る

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2016/12/11 15:59
古道137
武術と護身術(4) 攻防において技術が必要となるのは、攻防をコントロールするためである。攻防をコントロールするとは、相手に与えるダメージをコントロールすることである。つまり活殺自在であるためにこそ攻防の技術は必要となるのである。ただ相手を殺傷するだけであれば、高度な技術は必要ない。しかし、人間は社会の中で生きていかなればならない。そうなると相手を倒すにしても、あまりに大きなダメージを与えることは、むしろ自分にとって不利となる。腕を引かれたからといって、眉間に必殺の突きを入れることは適当ではなか... ...続きを見る

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2016/12/10 15:59
古道136
武術と護身術(3) かつて柔道と古流柔術が試合をして、柔道が優勢であったのも、柔道が試合に使えるような技をのみ練習していたことに勝因があるであろう。このように相手を倒すということに限ったならば、武術にはあまりに多くの技があるといえる。ただ、武術流派の成り立ちを考えると、そもそも体系化された武術技法は、相手を倒すことを第一義としているとは言えないのである。ただ相手を倒すだけであれば、高度な技法は必要ない。基礎体力と基本的な攻防の動き、それに度胸があれば、実戦で相手を制していける。軍隊などの格闘術... ...続きを見る

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2016/12/09 15:59
古道135
武術と護身術(2) よく「武術は相手を倒すためのものではない。護身のためのものである」と説明されることがある。ただ武術を習おうとする多くの人は、他人より強くなることを求めて武術流派の門を叩いているようである。一般には「相手を倒すためのものではない」といったことを単なる「お題目」としてしか聞いていないようであり、あくまで武術は相手を倒すものとみなされている。ただ単に相手を倒すだけであれば、幾つもの技を習得する必要はない。形意拳の郭雲深は崩拳の一手をして、よく闘いに勝ったとされるが、これは一手をよ... ...続きを見る

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2016/12/08 15:58
古道134
武術と護身術(1) 武術の流派が生まれるのは、江戸時代になってからであった。システム化された武術は闘いの時代ではなく、闘いの無い時代に編まれているのである。その原因としては、戦国時代のように騒乱が続く時には、武術の技法を整理したり、理論をゆっくりと研究することはなかなできない、といったこともあろう。これは個人においても同じで、宮本武蔵はかつて実戦をやっていた頃をふりかえって『五輪書』を著すのである。このことを更に極論すれば、武術の流派は戦乱の時代には必要なく、世の中が平和になってから求められる... ...続きを見る

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2016/12/07 15:58
古道128
平起平落の歩法(5) 平起平落の歩法の意義としては、前足の膝を使うことで、寸勁のような独特の打法、間合いを使うことにある。こうした特殊な間合いを使うことで、攻防において優位に立とうとするのである。おもしろいことに平起平落の歩法は、赤ちゃんの歩き方に近いものがある。そうであるとすると平起平落の歩法は、人が本来あるべき歩法であるといえるのかもしれない。そうであるなら平起平落は攻防云々だけではなく、人として本来の身法、歩法を取り戻そうとするものと考えることもできるのである。 ...続きを見る

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2016/12/01 16:03
古道127
平起平落の歩法(4) 孫禄堂は、身法の誤りは歩法に、歩法に誤りは身法にある、としている。形意拳で、拳を打ったときに体がのけぞるようであれば、歩法を注意してみなければならない。平起平落の歩法になっていないことが考えらえる。 宮宝田は、踵を靴の中に入れないまま歩いていた、とされている。いわゆる踵をつぶしたはき方をしていたわけである。これは危急の場合に、靴を飛ばして危機を脱するためとされるが、こうしたはき方のベースには平起平落がある。平起平落を修練すると、踵を上げないで、靴をやや引きずるような歩法... ...続きを見る

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2016/11/30 16:03
古道126
平起平落の歩法(3) 多くの八卦掌諸派では、地面を滑らせるような歩法をとる。これも、平起平落によるものである。平起平落の歩法の修練をしていると、踵を浮かさないで歩くので地面を滑るような歩き方になる。一見して八卦拳の足を高く挙げる歩法と、地面の上を滑るような歩法はまったく相いれないように見えるが、実はつながっている部分もあるのである。 また、太気拳の「這」も平起平落の練習とみることができる。そうしたことからすれば、「這」は形意拳の核心部分の練習法ともいえる。後足の蹴りを使って形意拳を行うと一瞬... ...続きを見る

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2016/11/29 16:02
古道125
平起平落の歩法(2) かつて来日した張一中に試合を挑んだ沢井健一は、その場にいた人によると、足を引きずるような歩き方をしていたと聞く。張一中は、もともと八卦掌を習得しており、後に王樹金の弟子となった。晩年の王樹金は、八卦掌に関心があったらしく、張一中ヵらも情報を得ようとしていたらしい。それはともかく、沢井健一を見人は歩き方は「這の練習によるもの」と考えていたようであった。確かにこうした歩き方は平起平落の修練をした人に特徴的に見られるものなのである。 ...続きを見る

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2016/11/28 16:02
古道124
平起平落の歩法(1) 平起平落の歩法は、八卦拳特有の歩法とされる。この意味するところは、後足で蹴らないで歩くというものである。一般には後足で蹴る力によって歩を進めるが、八卦拳ではそれをしないわけである。こうした歩法は、八卦門に限らず太極拳や形意拳でも見られるようである。 ただ太極拳や形意拳では「平起平落」があまり意識されることなく、なんとなく一般的な後足で蹴る歩法を行っている人も少なくない。これは平起平落に特に注意を促しているは八卦門でも同様なことである。正しく平起平落の意義が分からなければ... ...続きを見る

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2016/11/27 16:02
古道123
雷電為衛門の足袋(3) 巨漢の雷電は、すばやく相手のまわしを取りに行く必要はなく、相手を突いて倒せばよかったのであろう。小錦が現れた時には、巨体から繰り出される突っ張りに多くの力士が翻弄された。それと似たようなことが雷電のときにもあったと思われる。 面白いことに舞の海も足袋も親指の根あたりが張っていない。舞の海も立ち合いに突っ込んでいくようなことはしなかった。まともに当たれば跳ね飛ばされてしまうからであろう。このように足の形からはどのような身法を使ったのかが明らかに分かる。これは手も同様であ... ...続きを見る

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2016/11/26 19:49
古道122
雷電為衛門の足袋(2) 雷電の足袋と並んで双葉山の足袋も展示されている。比べてみると親指の付け根あたりが、双葉山は大きく横に張りだしているのが分かる。一方、雷電の足袋にはそうしたものは認められない。同じく展示されている栃錦も、親指の付け根あたりの張り出しがある。この部分が発達しているのは、出足の鋭さを求めて稽古をしたためと思われる。雷電と似た足袋の形を探してみると小錦や曙があった。 ...続きを見る

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2016/11/25 19:48
古道121
雷電為衛門の足袋(1) 雷電為衛門は江戸時代の力士である。相撲史上最強の力士ともいわれている。もちろん武術においてもそうであるが「最強」などといったものを、時代を越えて決めることなどできないのが本当のところである。しかし、とにかく強かったことは確かであろう。二メートル近い巨漢で、得意技は突っ張りであったとされる。現在その足袋を相撲博物館で見ることができる。足の大きさは30センチもある。 ...続きを見る

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2016/11/24 12:26
古道120
実戦の風景(2) 特に興味をひいたのは林田の刀の峰にかなりの深さの傷のあることである。中井は薩摩藩士であったから示現流を使ったのであろうか。示現流では激しく打ち込む刀法を特徴とする。これにより林田の構えていた刀が切り落とされ、胸を突かれたものと思われる。そうした形も示現流にはある。 林田が使っていたのは室町時代の刀で兼元の銘があるという。廃刀令が出されるのは、これより十年もたたない明治九年(1876)である。こうした社会状況がなかったならば、あるいは研ぎに出されて、再利用されていたかもしれな... ...続きを見る

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2016/11/23 12:26
古道119
実戦の風景(1) 現在でも剣術の演武を見る機会は少なくないし、修行をしている人もかなり居る。しかし、実際の斬りあいがなされることは無い。こうした現代にあって、慶応四年(1868)に起こったパークス襲撃事件に実際に使われた林田貞堅と中井弘の刀を京都国立博物館の坂本龍馬展で見ることができるのは貴重なことである。 襲撃事件では林田がパークスを襲撃に来る。これに中井らが応戦したのである。結局、林田は中井に胸を刺されて倒されてしまう。展示されているのは林田と中井の刀であるが、ともに激しい刃こぼれが認め... ...続きを見る

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2016/11/22 12:25
古道118
力を使わないということ(5) それでは「剛」の身法と、「柔」の身法のどちらが良いか、ということ、どちらも一長一短があるのである。「剛」の身法は身に着けることが比較的難しくない。努力をすれば、それだけの実感が初めから得られる。しかし、「柔」の身法はそれを身に着けるまでが難しい。加えて、ある程度の境地に入るまでは力の実感が得られない。また、ある程度の完成にいたるまで、力を大きく出すこともできないのである。「剛」であっても、「柔」であっても、筋肉にテンションをかけることで「力」を得ているのは同じであ... ...続きを見る

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2016/11/21 12:25
古道117
力を使わないということ(4) あるいは関取が一分ほどの相撲でも息を切らせるのに、塩田剛三は説明をしながら数分の演武をしても息が切れないというのも、これらが共に「剛」と「柔」の身法として高度に仕上がっているためである。決して関取に体力がなく、塩田剛三が手抜きの演武をしているわけではない。動画サイトで容易に確認できることであるが、数分の演武でも、「柔」の身法が使えていない合気道師範は、すぐに息が上がってしまっている。 ...続きを見る

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2016/11/20 12:25
古道116
力を使わないということ(3) 「剛」と「柔」の身法は全く異なっている。私見によれば大体、中学生あるいは高校生あたりはまだ「柔」の身法が使えている。しかし、更に上の年齢になって鍛えていると「剛」の身法となる。プロのスポーツ選手などは、大体が「剛」の身法を高度に身に着けている。高校野球の投手は連投ができて、プロの投手ができないことは「柔」と「剛」の身法のあり方を端的に現している。高校生はいまだ「剛」の体になり切っていないので、一試合で力が出し切れないのである。そのため余裕が残るのため、翌日も投げる... ...続きを見る

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2016/11/19 12:25
古道115
力を使わないということ(2) 太極拳や合気道で「力を使わない」というのは、体が硬くなるような力の入れ方はしない、ということである。これを行うには、それが可能な心身の状態を作らないといけない。よくオリンピックに出るような選手は歯を悪くしていることがあると聞く。それは力を入れた時に、全身を硬直させるので、歯も強く嚙合わせられてしまう。ために歯が悪くなるのであるという。こうした心身の使い方を「剛」とするならば、太極拳や合気道のそれは「柔」である。 ...続きを見る

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2016/11/18 12:24
古道114
力を使わないということ(1) 太極拳や合気道では「力を使わずに相手を倒す」とするような言い方で説明がなされることがある。しかし、まったく力を使わなければ、人は立っていることもできない。あるいは、これは「余分な力を使わない」ということである、とされることもある。しかし、余分な力を使わないのは、どの武術やスポーツあるいは演劇などでも共通して言われることであり、太極拳や合気道独特の身法の説明にはならない。植芝盛平もそうであるが、高度なレベルに達した太極拳の師範もかなりの力持ちである。 ...続きを見る

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2016/11/17 12:18
古道113
双重ということ(4) また双重を避けることで、歩法が自在となる。この歩法の有利さを使っているのが形意拳である。一気に間合いをつめてしまう形意拳の歩法が実戦において極めて有利であることは言うまでもあるまい。太極拳でも軽霊ということが重視される。軽霊とは、素早い身法、歩法のことである。軽霊であるからこそ攻撃を当てることにおいて優位に立てるわけである。またそれは相手の攻撃を避けることにあっても有効となる。 ...続きを見る

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2016/11/16 14:33
古道112
双重ということ(3) こうした太極拳と同様の突きの方法は、興味深いことに塩田剛三が会得している。植芝盛平も、これを自得していたようである。しかし、ほかの合気道の修行者には、こうした当身を会得した人のあるのを聞かない。おそらくは、この方法を知る人はほとんどいないのであろう。また練習法として体系化もされていない。 柔らかく技を使う稽古の中から太極拳的な突きが合気道において自得されたケースのあることは、それがひとつの自然な身法であるからなのである。柔らかな身心を養っていくと自ずから現れる身法の中に... ...続きを見る

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2016/11/15 14:32
古道111
双重ということ(2) これは足から腰、そして拳へと段階的に力が伝わることを示している。しかし、太極拳の動きは一動一静を根本とする。つまり、足腰の力が、突きへと伝達されるのではあるが、腰の回転と突きとが同時に為されるのである。もちろん最終的に起こっていることには違いはない。一般的な拳術でも、太極拳でも、腰の回転する力を、ぶれることなく拳へと伝えているのである。しかし、その伝え方に違いがあるのである。この違いは攻防をどのように捉えているのか、といった戦法の違いがあるためである。拳そのものの力の強さ... ...続きを見る

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2016/11/14 14:31
古道110
双重ということ(1) 太極拳では特に双重をよろしくないとする。双重は両足に共に体重をかけることである。これがよろしくないとされるのは、太極拳の根本的な身法にかかわるからである。一般的な拳術では両足を安定させて、腰を回し、その力を拳へと伝える。これは体をとりまく渦巻きのようなイメージ図として示されることがある。安定した足から発した力の螺旋が、腰の回転を経て、肩から拳へと伝わることを示したものである。 ...続きを見る

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2016/11/13 14:30
古道109
八卦拳と伝教大師(6) こうしたところにも常行三昧と八卦の走圏との関係はあるのである。あえて何の根拠もなく一地方の道教の儀式に八卦拳の起源を求めるよりは、すでに八卦門の中に口伝のあるところからそれを求めるのが正しい道筋であろう。そうしたこともあって、日本に天台宗の止観を本格的に紹介した伝教大師を日本の八卦拳を開いた祖師、つまり開日祖師として認めたいと思うのである。 ...続きを見る

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2016/11/12 16:06
古道108
八卦拳と伝教大師(5) もうひとつ常行三昧との関連で興味深いのは、京都の永観堂にある「みかえり阿弥陀」である。この阿弥陀像は、横を向いている。永観が、阿弥陀仏のまわりをまわって念仏を唱えている時に、阿弥陀仏が降りてきて、振り返り、「永観、遅し」と言った、というのである。こうした感覚は、実は八卦の走圏の時に体験することでもある。樹木を中心にして走圏をしていると、目の錯覚で樹木が逃げているように見えるのである。このことは八卦の修行者の多くが経験している。これは目線が上下しないようになったら経験する... ...続きを見る

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2016/11/11 16:06
古道107
八卦拳と伝教大師(4) 仏典では敬意をあらわす時に相手のまわりをまわることが記されているし、釈迦の遺骨を納めた仏塔をめぐることが行われたとされる。これが仏教を通して中国に入って、行として確立されたのが常行三昧である。この行はいまでも比叡山で行われている。実際のところは分からないが、八卦門の中に常行三昧と八卦走圏を関連付けることが、近代より前にあったことは充分に推測できるのではなかろうか。そして、董海川、程廷華の頃には既にその関係が分からなくなっていた。そのことからすれば、八卦の走圏は近代以前に... ...続きを見る

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2016/11/10 16:05
古道106
八卦拳と伝教大師(3) 考えるに八卦門では、円周を歩く走圏が天台止観から来たものであるとの口伝があったものと思われるのである。それが後には意味が分からなくなって、ただ口伝として残されるだけになったのではなかろうか。現代になって八卦の走圏は道教の転天尊なる儀式によるものとする説も出されているが、おそらく転天尊そのものも仏教の影響により生まれた儀式と思われる。 ...続きを見る

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2016/11/09 16:04
古道105
八卦拳と伝教大師(2) 八卦拳と阿弥陀仏で思い出されるのは、天台宗の止観である。止観とは瞑想のことであり、中国でまとめられた仏教瞑想である。これが後には禅宗とも関係を持つこととなる。この場合の坐禅としての止観は、止観の中の常坐三昧とされるものである。止観にはほかに常行三昧というものもあり、これは念仏を唱えながら阿弥陀仏のまわりを巡るもので、ここに八卦拳との関連が見えてくる。 ...続きを見る

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2016/11/08 16:04
古道104
八卦拳と伝教大師(1) 孫禄堂は師である程廷華の伝えた言葉として、八卦拳は口に阿弥陀仏を唱えるように行う、ことを教えられと記している。ただ、八卦拳の秘訣を語っているところで、いきなり阿弥陀仏を唱える、つまり念仏をする、というようなことが出てくるのは、唐突な感じは否めない。これは、おそらくは孫禄堂もその意味がよく分からなかったのではなかろうか。そして、もしかしたら程廷華も、師である董海川からこれを教えられた時によく意味が分からなかったのかもしれない。 ...続きを見る

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2016/11/07 16:00
古道103
塚原卜伝の極意「一の太刀」(続) 技を有利に使うことで第一に思い浮かぶのは、速さや強さである。早い技、強い技を使うことができれば攻防を有利に展開することができる。しかし、速さ強さには限界もある。ある程度、修練を積んだ者同士であれば、相手の二倍の速さ、強さで攻防を行うことは難しい。そうした中で、塚原卜伝が見出したのが、まさに死角の重要性であった。 そしてそれを技として展開したのが「一の太刀」であったのである。現在はすでに失われてしまった「一の太刀」であるが、これを考えるヒントとなるのが、卜伝が... ...続きを見る

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2016/11/06 11:25
古道102
塚原卜伝の極意「一の太刀」 最近は空手がオリンピック種目に加わることもあって、テレビなどでも取り上げらえる機会が増えたようである。先日も世界チャンピオンの技として、ひじょうに低い姿勢での中段突きが紹介されていた。相手になったアナウンサーは目線のところにカメラをつけて、相手がカメラの画面から消えることを示していた。つまり、死角から攻撃をしている、ということである。実戦において、こうした技がどれほど有効か否かは考える余地もあろうが、一定のルールの下では、そうしたところに死角が生まれるのであろう。 ... ...続きを見る

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2016/11/05 11:24
古道101
多人数技の変化(3) 対剣術の柔術の間合いとしては、相手が技を出す前に抑えてしまうというところに特徴がある。 一方で合気道などでの武器捕りは、相手が剣を振り降ろすのに合わせて入身をする。この時の間合いは相手が技を行ってから後の反撃となる。相手が刀を振り下ろした、つまり技を行った時には当身が入っているので、すでに相手を制してはいるが、技の発生する前に抑える技とは間合いが異なることに留意しておく必要があろう。いうならば、この間合いは剣術の間合いなののである。 互いに剣を持っている場合には、間合... ...続きを見る

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2016/11/04 11:48
古道100
多人数技の変化(2) 興味深いことに沖縄で反対住民を機動隊が数人で移動させる時に、大東流で見られる抑え技(両手、両足を持たれる)と同じことになっていた。さすがにカメラの前では、住民を殴ったりはしていないが、はたしてこうした住民が大東流を知っていたら、この事態を制することができたであろうか、と思ったものである。 本来、日本の柔術はレスリングや相撲のような組打ちから生まれたのではなく、小太刀の技として生まれた。後には素手で剣術に対するなど、対剣術の技法を発展させてきたのであった。柔道の一本背負い... ...続きを見る

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2016/11/03 11:47
古道099
多人数技の変化(1) 江戸時代の柔術の伝書には三人や四人で行う抑え技が示されていることがある。これは殿中で狼藉者を抑えるために武士としては知っておくべき技であったことであろう。しかし、こうした技は近代の大東流では、返し技として提示される。 実際のところ三人、四人で抑えられてそれを返すことはひじょうに難しい。相手がただ抑えているだけならまだ良いが、それを返そうとすると拳で打ったりしてくる可能性もある。つまり基本的には複数の相手に抑えられるとそれを返すことは、きわめて困難であると言わねばなるまい... ...続きを見る

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2016/11/02 11:47
古道098
小栗流和兵法(3) 新陰流において活人刀が柔術へと発展する萌芽は、すでに無刀捕りが考えられていたあたりにあったのである。つまり和兵法の考え方そのものが、無刀捕りとして、新陰流の中にあったことは明白なのである。そして無刀捕りは新陰流の根本となる概念でもあった。それが「和兵法」とする概念を与えられたわけである。そうであるから和兵法は無刀捕りと同じと考えて好かろう。殺人剣、活人刀、そして無刀捕り、これらを深め整理して出来たのが「和兵法」という概念であった。そして、それは「やわら」という考え方なのであ... ...続きを見る

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2016/11/01 11:46
古道097
小栗流和兵法(2) 江戸時代あたりであれば、剣術を柔術をともに修行することは珍しくはない。一般的には一刀流と渋川流など、二つの流派として修行されるが、それをひとつにした小栗流にあっては、その意味を考えてもよかろう。 特に小栗流和兵法においては、柔術とならんで剣術がひとつの体系として編まれることになんら矛盾はないのである。それは小栗流が新陰流をベースとするからである。新陰流には、もともと殺人剣、活人刀という考え方があった。殺人剣は積極的な攻撃で、活人刀は防御の技ということになる。これらは共に剣... ...続きを見る

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2016/10/31 11:46
古道096
小栗流和兵法(1) 坂本龍馬は、北辰一刀流を修行したことはよく知られているが、土佐にいた頃には小栗流を修行しており、目録を得ている。小栗流「和兵法」は「わへいほう」と読ませているが、小栗流の全体の思想からすると、これで「やわら」と読まれるべきではなかろうか。 小栗流は小栗正信が始めた流儀である。小栗は新陰流を学んでいた。これに柔術を加えて小栗流を創始したと伝えられている。柔術を加えた、ということは単に剣術に柔術を付加したということではあるまい。それは新陰流の無刀捕りをより発展させたと考えるこ... ...続きを見る

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2016/10/30 11:45
古道095
武術と芸術(続) 機能美とは、また無為自然の美でもある。美を演出しようとしなくても、自ずから現れる美なのである。それはまた自然の美とも言えよう。今年も紅葉の季節となるが、紅葉の色の具合など、まさに自然の妙としか言えない光景を目にすることができる。そうしたものと武術の美とは同じところにあるものなのである。あるべき自然そのままのエネルギーが発露される。そに美しさを見ることができるわけなのである。 ...続きを見る

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2016/10/29 15:24
古道094
武術と芸術 武術の持つ芸術性を追究するとして、音楽や舞踏と一緒に武術を演ずるパフォーマンスを見ることがある。しかし、そうしたものに芸術性を感じたことはない。それは武術の美が機能美にあるからである。実用、実戦を研究する過程で自ずから備わった美が、武術の美なのである。そうであるのに、武術の機能以外のものを加えて芸術性を求めるのは、機能美が損なわれることになる。ために、そこに見ることができるのは、本当の意味での武術の美ではない。 大陸では「武術(ウーシュ)」なる床運動のような武術が、現代になって行... ...続きを見る

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2016/10/28 15:23
古道093
武術と体育(続々) 中国武術においは独り形の修練が主となっている。これは自己の内面を掘り下げるためであり、他人に見せることを意図しているものではない。これを「見せる」ことを意識して練習をしたのでは、心身のあり方が違ってしまうことになる。あくまで身心のエネルギーは内へと向かわなければならない。そうでなければ「静」を得ることができないのである。「見せる」ことを意識した時点で、心は外に向かってしまう。これでは不動心を養うことはできない。外的なものに影響されやすくなっているからである。 このように日... ...続きを見る

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2016/10/27 15:23
古道092
武術と体育(続) 日本の柔術は、相手をつけての稽古が主体となるので、競っているように見えるが、柔術の目的とするところは、争おうとする相手を抑えるためなのである。攻撃ではなく防御を主とするのが、柔術なのである。攻撃を主とするのであれば、競技化もふさわしいであろうが、柔術を相手を倒す方法として競技化をすることは柔術の根本を失うことになるわけである。 近代になって柔道と柔術の試合で、柔道が優勢であったのは、柔道が「攻め」の間合いの稽古をしており、一方の柔術が「守り」の間合いの稽古に終始していたこと... ...続きを見る

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2016/10/26 15:23
古道091
武術と体育 近代日本と現代中国において伝統的な武術は、西洋体育の仲間入りをしようとした。これらに共通するのは「競技化」である。ゲーム的な要素を入れることで、西洋の体育としようとしたわけである。これにより柔道では乱捕りを競技とし、中国武術では形の演武を競技とした。ちなみに空手においては、この二つを共に競技として取り入れている。 一方で合気道では競技化を認めることをよしとしていない。一部に競技化を進める団体もあるが、争いを無くすことを旨ととする合気道で、競い合いを練習することは、まことにふさわし... ...続きを見る

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2016/10/25 15:22
古道082
太上十三経注釈(292)老子 第二十二章 老子は世捨て人となることを推奨しない。これも仏教とは違うところである。本来、仏教では出家をしないと悟りは開けない、とされている。しかし、老子は社会的な功績や生活して行く上での長所のあることを認めている。そして「自ずから伐(ほこ)らざる故に功あり。自ずから矜(ほこ)らざる故に長あり」と教えるのである。「功」も「長」も、それにとらわれないことで、本当の「功」や「長」となる、というのである。「功」や「長」にとらわれて、そうしたものに恋々とするようでは、また新... ...続きを見る

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2016/10/16 21:36
古道081
太上十三経注釈(291)老子 第二十二章 老子は「自ずから是ならざる故に彰(あきら)かなり」と教えている。一般に「良い」「是(ぜ)」とされているものが、本当に好ましいものであるとは限らない、というのである。 権力や権威を持つ人は、一般的に社会ではこれを「良し」とするが、そうした人たちが普通の人たちとは違った特別な存在であるわけではないのである。どのような「偉い」とされる人物も、ある限られた部分に限って卓越しているに過ぎないのである。それはそれで尊重されるべきであるが、そのことが全てではない。... ...続きを見る

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2016/10/15 21:35
古道080
太上十三経注釈(290)老子 第二十二章 老子は「自ずから見えざる故に明らかたり」と教えている。老子は森羅万象には「道」なるもの、つまり法則がある、と考えていた。それを具体的に追究したのに占術がある。天文、地相に現れる一定の法則と同じく、人の一生にも何らかの法則がある、と考えたわけである。そこで生年月日時によってそれが分かるのではないかと考えて、紫微斗数や四柱推命が考え出されることとなった。 西洋の占術は、天文学より前にあり、その呪術性を脱する中から天文学が生まれたとされるが、中国の場合は反... ...続きを見る

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2016/10/14 21:35
古道079
太上十三経注釈(289)老子 第二十二章 また老子は「少なきは、すなわち得る。多ければ、すなわち惑う」とも教えている。どちらかと言えば老子は寡欲を良しとする。寡欲であるくらいで、ちょうど良いと考えるのである。老子の教えは生きていく上での苦しみから逃れる方法を説くものであるが、それは釈迦も同じである。しかし、釈迦が「真理」を知ることで、苦しみから逃れられると考えたのに対して、老子はとりあえず寡欲であった方が良いと考えたのである。老子は「真理」なるものも、それを求めるのが苦しみとなるようでは意味が... ...続きを見る

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2016/10/13 21:35
古道078
太上十三経注釈(288)老子 第二十二章 次の「やぶれるは、すなわち新たなり」も、壊れるからこそ、新しいものが出てくる余地が生まれる、とする教えである。新たなものを学ぼうとするならば、従来のものを捨てる必要がある。太極拳では 「己を捨てて、人に従う」という教えがある。それと、ここで老子が教えていることは同じである。「己を捨て」るからこそ「新た」なものが生み出されるのである。太極拳では「技」を覚える。しかし、その段階では真に太極拳の動きは出てこない。推手や散手を通して、「技」のくびきから逃れる... ...続きを見る

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2016/10/12 21:34
古道077
太上十三経注釈(287)老子 第二十二章 「曲」と「全」そして「枉」と「直」といった一見して相反するものが、実はひとつのことであると教えた老子であるが、それはあくまで合理的な教え方に基づくものなのである。老子は、窪んでいるから、盈(み)たすことができる、という。まさに、あたりまえのことである。しかし、この合理的、あたりまえのことばかりではないのが、人の世なのである。 宗教などは、「迷信」と言って良いが、その中にも「合理性」は含まれている。人々の生活が円滑に行われるための要因が含まれているので... ...続きを見る

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2016/10/11 21:34
古道076
太上十三経注釈(286)老子 第二十二章 次は「枉」と「直」である。現在では「曲」と「直」とした方が分かりやすいのかもしれないが、老子やそれ以前の漢字の用法においては「枉」と「直」が対になるのが適当であったのであろう。ただ、要するに曲がっているものの中にも直線を見ることができる、ということである。つまり短い直線をつなぐことで直線にも円にもなる、ということである。これは太極拳の「曲の中に直を求める」という教えとも共通している。一連の動きの中に変化をするポイントを、多く設けることで「走(受け流す)... ...続きを見る

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2016/10/10 21:34
古道075
太上十三経注釈(285)老子 第二十二章 老子は冒頭で「曲」と「全」とをあげている。「曲」は[「偏っている」の意と解することができる。偏っているものは不完全であるようであるが、そうとばかりは言えない。それが老子の見方である。老子は「柔」を良しとして、「剛」を好ましくないものとする。これは偏っていることになろう。しかし、老子はたんなる「柔」を良しとしているのではない。剛をも含んだ「柔」である至柔を良しとするわけである。 「柔」のみを良しとするなら「曲(かたよっている)」ことになろうが、剛を含ん... ...続きを見る

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2016/10/09 21:33
古道074
太上十三経注釈(284)老子 第二十二章 (本文) 曲(かたよれ)るは、すなわち全ったし。枉(ま)がれるは、すなわち直し。窪めるは、すなわち盈(み)つる。やぶれるは、すなわち新たなり。少なきは、すなわち得る。多ければ、すなわち惑う。これをもって聖人は一を抱くを天下の式となす。 自ずから見えざる故に明らかたり。自ずから是ならざる故に彰(あきら)かなり。自ずから伐(ほこ)らざる故に功あり。自ずから矜(ほこ)らざる故に長あり。 それは、ただ争わざる。故に天下よくこれと争うことなし。古のいわゆる... ...続きを見る

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2016/10/08 21:26
古道073
太上十三経注釈(283)老子 第二十一章 最後に「補注」が記されている。そこでは「象」「物」「精」「信」がひとつのものであり、これによることで丹が得られる、とある。丹とは心身変容の鍵である。そして、これら四つのものは、一つのことに帰するのである。それは「徳」である。大いなる「徳」である「孔徳」である。そして人はその大いなる徳の容れ物、つまり「孔徳の容」なのである。道も、徳も本来、自己に備わっているものなのである。それをよく自覚することが神仙道の修行となるのである。 ...続きを見る

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2016/10/07 14:52
古道072
太上十三経注釈(282)老子 第二十一章 最後には「衆甫」について述べられている。「衆甫」とは、万物の根源ということである。これは「道」と同じである。そして「衆甫」とは「一物の真と、万物の理」であるとする。これを合わせると「真理」ということになる。具体的に言うならば、それは「道」と「徳」である。太極拳や八卦拳を煉って得られる心身の状態は、「徳」を実践して得られるものと同じである。そうであるから日常生活においても、そうした身心の状態を保つことで自ずから「徳」が実践されるのである。 ...続きを見る

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2016/10/06 14:52
古道070
太上十三経注釈(280)老子 第二十一章 注釈では「窈や冥の精は、つまりは真精である」とある。窈冥は深い玄なる瞑想の境地である。ここから得られるのが「真精」であるとする。そして「真精」を得るには「先ずは真信がなければならない」と教えている。この真信は、最初の「象」と同じである。神仙道は煉己から始まり、煉精化気、煉気化神、煉神還虚を経て、還虚合道へと至る。「象」が得られるのは煉己の段階で、これにより「道」や「虚」のあるのを感じるのである。そして、最後の還虚合道になって、再び「道」や「虚」との合一... ...続きを見る

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2016/10/04 14:50
古道065
太上十三経注釈(275)老子 第二十一章 恍惚と惚恍については、注釈で「惚や恍とは、性の本質を象徴するものである。恍や惚は性から生まれた物なのである」としている。存在の究極、根源的なものと自己を一つにしようとする場合には、「虚」や「空」あるいは「ブラフマー」といった「象(徴)」が用いられる。こうした象(シンボル)を通して修行をしていくと、神仙道では「凝」の感覚が得られる。ヨーガではチャクラという「象」を使って修行をして、クンダリニーの覚醒という「物」を得る一派もある。ただ「象(徴)」はあくまで... ...続きを見る

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2016/09/29 17:48
古道064
太上十三経注釈(274)老子 第二十一章 恍と惚、それに惚と恍、これについては「聖人はこれを転倒であるとしている」との注釈がある。これは言うまでもないが、「恍」「惚」が逆転しているからである。一般に神仙道で「逆転(転倒)」という場合には周天のことである。つまり、「恍、惚、惚、恍」は周天のことでもあるわけである。進陽火が「恍惚」、退陰符が「惚恍」となろうか。進陽火は、神仙道であれば「虚」についてのある種の「体験」を持つ段階である。それを身心に定着させるのが退陰符である。この段階では具体的心身の変... ...続きを見る

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2016/09/28 17:48
古道063
太上十三経注釈(273)老子 第二十一章 注釈では「惚であったり、恍であったりすることは象徴的なもの」としている。「惚」は神仙道では「煉己」とされるものである。ある種の気づきである。「虚」なる世界のあることを気づくのである。これは仏教では「菩提心を発する」ということになる。「煉己」や「菩提心」が開かれることがなければ、神仙道も仏道もその第一歩を踏み出すことはできない。従来の自分の考え方とは別なものに価値を見出すことである。 ...続きを見る

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2016/09/27 17:47
古道062
太上十三経注釈(272)老子 第二十一章 注釈では「恍惚」えられて「離性」であり、「無象とされる」と説明をしている。「性」とは心の根源的な働きのことである。離は心を示す卦であり、性は心つまり離に入ることで修行の成就が得られる。「無象」とは、つまり恍惚の状態である瞑想の境地にあっては「自分」という枠組みを超えているということである。自分ばかりではない、あらゆるヴィジョンなどの枠組み、捉われを超えているのである。これが、そのまま「道」ということでもあるわけである。仏教の悟りは、仏教の教理を正しく体... ...続きを見る

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2016/09/26 17:47
古道061
太上十三経注釈(271)老子 第二十一章 「衆甫」とは、万物の根源のことである。恍惚や窈冥の瞑想を経ることで万物の根源である「道」を知ることができるのである。老子は「古より今に及ぶも、その名をはなれず」としているが、注釈によれば、「衆甫」とされるものは、常にいろいろな名をもって呼ばれてきたが、そのことは、万物の根源が確かに存することを示す証左であるとしている。「衆甫」つまり「道」は確実に存在する。そうであるから、いろいろな違った言い方ではあるが、常にその存在が指摘され続けてきたのである。 ... ...続きを見る

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2016/09/25 20:40
古道060
太上十三経注釈(270)老子 第二十一章 恍惚の他に老子は「窈冥」をもっても、道家の瞑想を教えている。「窈冥」とは暗く奥深いということで、道家のいう「玄」と同じである。「窈冥」は恍惚の後に至る境地を示している。ただ窈冥に関してはその反対(冥窈)をいうことはしていない。恍惚が煉精化気、煉気化神、煉神還虚といった変容の過程を示していたのに対して、窈冥は還虚合道といった養い、育てる温養、封固をいっているからである。 ...続きを見る

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2016/09/24 17:46
古道059
太上十三経注釈(269)老子 第二十一章 恍惚であり惚恍でもある道家の瞑想にあっては、象と物あるいは物と象とが現れるとされる。これは道と徳でもある。「象」とは道への悟りであり、その実践が「物」としての徳の行為ということになるのである。そして徳の実践により、さらに道の悟りは深められるのである。神仙道の瞑想の秘訣である「回光返照」の「回」は帰すということであり、これは内面へと向かう意識の流れをいうものである。返照は外面へと向かう意識の流れを示している。つまり「回光返照」も、回照が道の悟りを教えるも... ...続きを見る

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2016/09/23 17:46
古道058
太上十三経注釈(268)老子 第二十一章 また「道」については、恍であり惚である、とする一方で惚であり、恍であるともしている。これは恍惚と惚l恍である。つまりは「恍惚」を、そのまま言うか、反対に言うかである。また、恍も惚も、ほのかであるとか、うっとりしているような瞑想の状態を示すものであり、語義としてはあまり変わらない。ただ老子は恍と惚とを「象」と、「物」とに分けて考えていた。つまり、象は物であり、物は象である、というわけである。これらは二つではあるが、根本はひとつなのである。 ...続きを見る

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2016/09/22 17:46
古道057
太上十三経注釈(267)老子 第二十一章 「道」とはいかなるものなのか。それは「従」なるものであるとする。太極拳では「己を捨てて相手に従う」という教えがあるが、これは「道」の働きを体得する、ということと同じであったのである。体得された「道」は、「徳」の実践として現れる。そうであるから、それは物的なものであるとも言えるわけである。つまり「従」は無為であるということでもある。自然そのままに、あるがままであることの快さを知るのが「道」を悟るということとなるのである。 ...続きを見る

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2016/09/21 17:45
古道054
太上十三経注釈(264)老子 第二十章 注釈では「どうして学問を絶つことをしないのであろうか」ともある。人は神仏や死後の世界などを妄想してきた。そして、こうしたものに畏れを抱く人も多い。老子は、こうしたとらわれを意味のないこととしているわけである。ただ時にこうした「妄想」も必要な人がいる。そうした人には、あえて否定をする必要はなかろう。しかし、できるならば身心を整えることで、「妄想」が必要のない状態となることが望ましいのである。 ...続きを見る

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2016/09/18 13:59
古道053
太上十三経注釈(263)老子 第二十章 何も知らない時には気楽に暮らしていたのに、「事実」を知ったことで不安が生まれる、ということもある。隣に引っ越して来た人が、過去に重大な犯罪を行った人であることを知れば日々、平安ではいられなくなるであろう。注釈では「学問を絶たないからこそ畏れをきらうようになる」として、知ることへの注意を促している。 ...続きを見る

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2016/09/17 14:20
古道052
太上十三経注釈(262)老子 第二十章 注釈には、聖人には「畏れということもない」とある。これは「憂い」と同じで、他からの評価を過度に気にすることはない、ということである。仏教では戒律がある。それは、それで良いのであるが、戒律にとらわれすぎるとかえって苦しみを生むことにもなりかねない。肉を食べたり、酒を飲むといったことも、適度であれば問題はない。また修行が進めば簡単にできることも、はじめの内は身心が整っていないので実行が難しいこともある。苦しみから逃れようと始めた修行がかえって苦しみを生むこと... ...続きを見る

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2016/09/16 14:19
古道051
太上十三経注釈(261)老子 第二十章 一般的に良いとされること、悪いとされることは本質的にはおおきな違いはない、と老子は考えていた。その時々で、善は悪とされることもあるし、悪も善とされることがある。注釈には「聖人には憂いというものはない」とある。それは無為自然であるからである。他人の評価を殊更に心配することがないのである。他人の評価は時によって変わる。自らは道により、自然によって正しいと思う道を実践するのみである。 ...続きを見る

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2016/09/15 14:18
古道050
太上十三経注釈(260)老子 第二十章 注釈では「学を絶つ」のは、道を体得してしまえば、徳は自ずから備わるものであるからとする。「徳」とは道の実践である。どのような行為をすれば道が実践されるか、つまり徳が実践されるかを学ばなければならないわけであるが、道が体得されれば思うままに行動しても、けっして道を外れることはない、徳の実践となるのである。 ...続きを見る

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2016/09/14 14:18
古道049
太上十三経注釈(259)老子 第二十章 老子は善と悪との差異もないものであるとする。老子は本質的な善もなければ、悪もないと教える。そして一般に畏れられていることも、本質的な畏れというものはない、というのである。一般的なテキストでは人の畏れることを畏れるべきではない、とあるが、ここでは人の畏れることの畏れそのものを忌避してはならないとある。つまり、畏れということそのものにもとらわれてはならないのである。 ...続きを見る

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2016/09/13 14:17
古道048
太上十三経注釈(258)老子 第二十章 老子は第二十章では、学問を絶つことを教えている。これは表面的な知識にとらわれることを良しとしない、ということである。「唯(い)」も「阿(あ)」も似たような返事の言葉であるが、そこにはニュアンスの違いがある。「唯」はたんなる肯定であるが、「阿」は内心は服していないという感じがある。とりあえず逆らわないでいる、といったところであろうか。しかし、あまりに答え方の形式にとらわれてしまうと、その人の本心を見失うことにもなりかねないのである。 ...続きを見る

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2016/09/12 14:16
古道047
太上十三経注釈(257)老子 第二十章 第二十章 本文 学を絶てば憂いなし。「唯(い)」これ「阿(あ)」とあい去ることいくばくぞ。善これ悪とあい去ることいかん。人の畏れるところは、畏れをきらうべからず。 〔「学を絶つ」とは、道は完全なものであって、そこには学ぶべき徳も備わってるからである。道も徳も欠けているところはないのである。そうであるから憂うることはまったくない。聖人が人々を見ると、「ええ(唯)」と答えるのは素直であるように思えるが、「はい(阿)」と答えるのは相手に追随しているように見... ...続きを見る

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2016/09/11 14:14
古道046
太上十三経注釈(256)老子 第十九章 注釈では「自らへのこだわりを少なくして、欲にとらわれないようにする」ことで真の聖や仁、巧を知ることができる、としている。これは常に自らの行為を見直す、ということである。神仙道での回光返照である。回光返照を行う身心を作るために神仙道ではいろいろな修行がある。西院ではマインドフルネスといった瞑想も実践されているようである。一日に一回くらいこうした機会を持つことが望ましい。太極拳や八卦拳は、心だけではなく、体の調整にもなるので、マインドフルネスのエクササイズと... ...続きを見る

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2016/09/10 15:58
古道045
太上十三経注釈(255)老子 第十九章 真の聖、仁、巧を得るには「決まったものにとらわれないようにする」ことが重要である、と教えている。これは『老子』の最初に述べられていることで、「名」というものに捉われては本質が見えなくなる、ということである。「聖」とされる行為が存在が、本当に「聖」なるものとするに値するのか、それをもう一度、吟味してみなくてはいけない、ということである。 ...続きを見る

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2016/09/09 15:57
古道044
太上十三経注釈(254)老子 第十九章 注釈では「聖」「仁」「巧」について「それぞれに違いがあるわけではない」としている。すべては一つのところから発しているものなのである。ために、それは「渾沌としており見分けることができない」ものであるともいう。これらはすべて無為自然の中から生まれているのである。無為自然の感覚を得たところから実践して始めて本当の聖や仁、巧を行うことが可能となるのである。 ...続きを見る

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2016/09/08 15:57
古道043
太上十三経注釈(253)老子 第十九章 「絶巧」については「利を考えるのは、すべて巧みなるを求める者たちである」としている。利を求めるには、特別な方法を探らなければならない。つまり巧みでなければ、なかなか特別な利益を得ることはできないのである。しかし、そこには無理が生まれやすい。無理が生まれるところは破たんへと導かれる。天地自然の中にあtって、そのままであることで、自ずから適度な利は得られる。そうした境地のあることを体得することで、真の巧みさた得られるのである。それは自分の行為が森羅万象の動き... ...続きを見る

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2016/09/07 15:57
古道042
太上十三経注釈(252)老子 第十九章 「絶仁」については「俗が尽きて、親しみ睦ぶことができる」としている。世間で行われている慣習や既成疑念から自由になったところに、真の仁の実践が可能となるわけである。仁とは思いやりである。子は親に孝行を尽くすのであり、親は子に慈愛をもって接する。これが仁の根本なのである。これと同じく自分より年齢が上の人には「孝」の気持ちで接し、下の人には「慈」をもって接すれば良いわけである。 ...続きを見る

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2016/09/06 15:56
古道041
太上十三経注釈(251)老子 第十九章 本当の聖である「絶聖」について注釈では「教えが尽きるところで、かえって充分なる教えが得られる」としている。充分に学んだ、と思ったところから本当の教えが始まる、というのである。つまり、既成のものを学ぶのではなく、自らがそれを通して発見、体得するところに真の智慧が生まれる、というわけである。 ...続きを見る

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2016/09/05 15:53
古道040
太上十三経注釈(250)老子 第十九章 注釈では「絶聖」「絶仁」「絶巧」の「絶」について、「大」であるとか、「至」であるとしている。大いなる聖であり、大いなる仁、大いなる巧というわけである。また「至」ともするが、これは老子が至柔などとして、使っているのと同じで、これも「真の」という意味である。これは一般に考えられている「聖」が本当の聖ではない、ということである。仁や巧も同じである。むしろ聖や仁、巧と見えないところにこそ、真の聖や仁、義があるものなのである。 ...続きを見る

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2016/09/04 16:22
古道039
太上十三経注釈(249)老子 第十九章 老子は絶聖、絶仁、絶巧は、それを「これである」と示すことのできないものとしている。しかし、あえて言うならば、素朴であり、自らに過度の執着をしないような状態である、と教えている。老子の生き方は、これに尽きるであろう。やり過ぎないでいれば、大体のことは良いところに落ち着くというわけである。 ...続きを見る

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2016/09/03 16:21
古道038
太上十三経注釈(248)老子 第十九章 巧ということについても、すでに述べた聖や仁と同じで、一般的には巧を絶って、利を捨てることで、盗みを働く人はいなくなる、というのである。一方、太上十三経では絶巧とは、利を捨てることであるとする。利を捨てれば盗みを働く人は出ない、というわけである。過度に利益を求めることで、いろいろな場面で盗みが生まれしまう。これはよろしくないわけである。盗みとは、また偽りのことでもある。正しくない方法によって、なにかを得ようとして、巧みにふるまっても、それは最後には好ましく... ...続きを見る

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2016/09/02 16:20
古道037
太上十三経注釈(247)老子 第十九章 仁についても、仁を絶ち、義を棄てることで、人々は孝行や慈愛に目覚めるとするのが一般的な解釈である。太上十三経では、絶仁とは義を棄てることである、とする。相手を思いやる仁愛の実践は「義」にとらわれないで行わなければならない、とするわけである。つまり、こうしなければならない義理や義務によるのではなく、自然と仁愛が実践されるようであるべき、とするわけである。 ...続きを見る

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2016/09/01 16:19
古道036
太上十三経注釈(246)老子 第十九章 ここで老子は「絶聖」「絶仁」「絶巧」につて論じてる。ただ、一般的な老子の解釈では「聖を絶つ」という読み方をしている。「聖を絶つ」とする読み方では、聖なるものを捨てて、智慧を棄てれば、多くの人を利することになる、となる。一方、「絶聖」とすると、絶聖とは智慧を棄てることであり、そうなると多くの人を利することになる、と解釈できる。老子は、ここで三つを論じているとする。そうであるから、太上十三経では絶聖、絶仁、絶巧の三つと解しているわけである。 ...続きを見る

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2016/08/31 16:18
古道035
第十九章 本文 ...続きを見る

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2016/08/30 16:16
古道034
太上十三経注釈(244)老子 第十八章 注釈の最後には「太古の良い時代を慕うのである。上徳無為を修めることが、久しく行われているのである」とある。太古の人が大道と一体となっていた時代とは、「上徳」の実践されていた時代である。それはつまりは「無為」の実践されていた時代である。神仙道などの修行が行われるのも、無為自然の状態を良しとする人がいるからであり、それが本来の人として、あるべき姿であるからである。 ...続きを見る

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2016/08/29 11:17
古道033
太上十三経注釈(243)老子 第十八章 忠臣については「真金を得て乱れた状態を整えるのと同じ」と解説している。金は水を生む。水とは「腎」の」ことである。つまり、真金を得るとは、腎が整えられる、ことを言っているのである。神仙道の修業では、心を第一とするのではなく、腎を整えることを第一とする。 ならば真金はどこから来るか、というと、土から来るのである。土とは大道のことである。大道を知ろうとする気持ちが真金なのである。仁義や智慧、孝慈を実践しようとする気持ちが真金なのである。そうした志を持つことで... ...続きを見る

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2016/08/28 11:16
古道032
太上十三経注釈(242)老子 第十八章 六根とは視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、意識のことであるが、注釈では「六根を鎮めて静を得させる」ことで、さらに深く孝慈の実践が可能となる、としている。身心の修養を行うことが、真の孝慈の実践につながる、というのである。しかし、これは単に孝慈だけの実践ではない。大道の実践となるのである。大道を実践することで、自ずから仁義や智慧、孝慈が実践されるのである。 ...続きを見る

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2016/08/27 11:16
古道031
太上十三経注釈(241)老子 第十八章 注釈では「家庭にあっては孝慈を保つようにする」ことが重要とする。家庭において孝行や慈愛が普通に実践されたならば、殊更にそうしたものの重要性が説かれることもなくなる。老子は仁義や孝慈、それに忠臣の存在が悪いといっているのではない。殊更にそうしたものが強調されるようになった時の危険性に注意を促しているのである。 ...続きを見る

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2016/08/26 11:16
古道030
太上十三経注釈(240)老子 第十八章 人の心は、欲望に満ちている。それを知る必要はない。ただ、それに捉われないようにすれば良い。インドではバラモン教でも、仏教でも、心を詳しく観察してそれに対処をしようとする。しかし、神仙道では、とにかくとらわれないようにすれば良いと教える。 釈迦が教えるような悟りは開けないことが、二千年ほどの実践を通して明かとなった。これはすでに釈迦が亡くなって数百年後には、一部には明かとなったようで仏教は大乗仏教へとおおきく変容をする。現在の日本の仏教のほとんどは、本来... ...続きを見る

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2016/08/25 11:16
古道029
太上十三経注釈(239)老子 第十八章 国家を治めるには民情を知ることが大切である。そのために現在の各国政府は世論調査などいろいろな手段を用いているが、老子はそうしたテクニックを尽くすよりも「巧妙に時機を見て、薬物を得るようにする」ことが重要である、と教えている。「薬物」とは変化の機会のことである。天地人の陰陽の変化をよく知って、それに準じて変化を促せば、世の中はうまく治まるというのである。 つまり民情とは、それを知ることよりも、それを作っていくことが重要であるとする教えである。変化の機をよ... ...続きを見る

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2016/08/24 11:15
古道028
太上十三経注釈(238)老子 第十八章 注釈では「安定の基盤が失われることで、返還の功が得られる」とある。つまり、安定が失われることで、かえって真の安定が得られるのである。それが道の根本に返ることができるようになる、ということである。疑いもなく価値あるものを一旦、手放してみる。そうした行為の中から真の価値あるものが見えてくる、と教えているのである。常識とされるものを疑うことで、正しい道が見えてくるのである。それには安定に執着することなく、渾沌を恐れることのないことが重要である。 ...続きを見る

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2016/08/23 18:34
古道027
太上十三経注釈(237)老子 第十八章 注釈では、治世の道と、修身の道は同じであるとする。そして、この章で述べられていることは、無為が失われることで、本当のものが失われてしまい、人は偽りのものを良しとしてしまう、ということである。それは偽りのものが、分かりやすいからである。歴史を見れば、人々が簡単に偽りのものに熱狂して、道を踏み外してしまうプロセスを知ることができる。こうした過ちに陥らないためには、「疑いもない正しいこと」「疑いもない貴いもの」を、第一に疑ってみる必要があるのである。 ...続きを見る

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2016/08/22 18:34
古道026
太上十三経注釈(236)老子 第十八章 六親とは「父母、兄弟、妻子」など、いうならば家族のことである。真の意味での家族の和合が失われたために、孝行であるとか、慈愛であるといったものが、言われるようになった、と老子はするのである。これは国家においても同様で、国家が乱れたために国家に忠誠を尽くす人も出てくることになる。国家が正しくあれば、皆が国家に忠誠を尽くしているので、殊更にそうした人が認められるようなことはないわけである。ここで重要なことは、国家とは為政者のためのものではない、ということである... ...続きを見る

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2016/08/21 18:34
古道025
太上十三経注釈(235)老子 第十八章 老子は、大道という真に優れた道が廃れたからこそ仁義などがやかましく言われるようになった、とする。本当に優れたものが実践されている内は、あえてその姿を表すことはない、ということである。これは智慧なども同じで、真に優れた智慧が失われると、見せかけだけの「智慧」が出てくる。人は往々にして、真の智慧よりも、見せかけの「智慧」を喜び、尊ぶものである。それは見せかけの方が、分かりやすいからである。 ...続きを見る

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2016/08/20 18:33
古道023
太上十三経注釈(233)老子 第十七章 「道」の実践の根本にあるのが「信(まこと)」であり、それを伝える「言」である。富を得るのも、世を治めるのも、身を修めるのも、すべて「言」によるとする。仏教には「愛語」という考え方がある。これは「道」の実践者により発せられる言葉のことである。「道」は特別なものではない。すべての人は「道」を実践している。しかし、往々にして欲望などにより横「道」にそれてしまっているわけである。そうであるから愛語を意図的に実践することで、それがそのまま「道」の修行となるのである... ...続きを見る

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2016/08/18 17:04
古道022
太上十三経注釈(232)老子 第十七章 最も重要なことは「道」を得るということである。これを得ることができれば、身心の状態はあるべき正しいものとなる。これを社会に向けて実践するのが、菩薩道である。「愛し敬うことを修める」わけである。菩薩道は、ただ気持ちがあっただけでは具体的な実践はできない。どのように菩薩道を実践して行けば良いのか、を考えるのが、「法律や功績を明らかにして人を制御する」段階である。こうして菩薩道の具体的な実践の方法が明らかになったならば、その運用も考えられなければならない。それ... ...続きを見る

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2016/08/17 17:03
古道021
太上十三経注釈(231)老子 第十七章 注釈では、老子はここで政治的なことを語っているようであるが、それはそのまま個人の修行のことを言っているのであると述べている。これはまったく牽強付会というものでもない。神仙道でも、儒教でも、社会と個人をひとつのものとみる考え方があるのである。社会における理想形は、そのまま人体においてもあてはまる、とするのである。 ...続きを見る

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2016/08/16 17:02
古道020
太上十三経注釈(230)老子 第十七章 老子のいう「帝王」は、まさに独裁者としての帝王である。中国では帝王はすべての事柄において最終的な決済を行わなければならなかった。ために優れた皇帝は激務をこなさなければならなかった。故宮博物院には、清の時代の皇帝の決済書が残っているが、賢帝とされた皇帝は実に詳細に命令を書いている。一方、愚かとされるような皇帝は「良きにはからえ」といった一行を記すのみである。老子はこうした皇帝が、無為であることが望ましいというのである。中核にある人が無為である。道の実践者で... ...続きを見る

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2016/08/15 17:01
古道019
太上十三経注釈(229)老子 第十七章 注釈では「信」の字を、「人の言うこと」と解しているようである。そうであるから「信」の実践は、言葉を慎むことである、ともしているのである。言葉にして相手に伝えなくても、自ずから互いにとって最も好ましい結果の得られることを理想とするわけである。個々の人が「道」を実践すれば、自ずから全てがあるべき状態になるからである。 武術でも、秘伝や奥義として殊更に言語化しなくても、形を練っていれば、自ずからそうしたものは得られるのである。それは「道」が無為自然であるから... ...続きを見る

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2016/08/14 11:21
古道018
太上十三経注釈(228)老子 第十七章 老子は「信(まこと)」を大切なものと考える。しかし、一般の人は「情」による、とする。これは鋭い指摘であり、一般大衆を動かすのは「理」ではなく、「情」であると昔から言われている。しかし、老子や釈迦は「理」すなわち「信」を得ることがなければ、人は永遠に苦しみの中から出ることはできない、と教えていた。注釈では「一般の人は真の情を信ずる」とある。これは多くの人が「理」をして、あるいは「信」であると思っていることが、実は「情」から発するものであることが多い、という... ...続きを見る

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2016/08/13 11:21
古道017
太上十三経注釈(227)老子 第十七章 法令をもってしても、うまく行かなければ「智慧や巧みさ、侮り」を使うことになる。これは人の気持ちを誘導しようとするものである。あるべき理想を求めるのではなく、人々の欲望を餌に誘導するわけである。こうした正しくない方法は、一見して容易に成功を手にすることができるが、最後には必ず失敗をしてしまう。最近、よくいわれる衆愚政治なるものを老子は最後にあげて、これ以下は論ずるに足りない、とする。この次にくるのは独裁のようなものであろう。 ...続きを見る

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2016/08/12 12:26
古道016
太上十三経注釈(226)老子 第十七章 理想的な「道」の実践が困難になったら、「親しみ、愛し、奨めたり、誉めたり」すれば良いのであるが、それも難しくなったら、「法令をして、それを畏れさせて、服従をさせる」ことが必要とされるようになる。こうなると宗教的な範疇をはずれて政治的なレベルになってしまう。武術でいえば形を「覚えるのが、このレベルである。そうであるから形を覚えたら、次に形を超えた太和の気を開くようにしなければ、ならない。そして「道」の境地へと入って行くのである。 ...続きを見る

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2016/08/11 12:23
古道014
太上十三経注釈(224)老子 第十七章 「道」とは法則のことである。古代の中国人は、天の星々の運行に一定の決まりがあることを知って、おそらく人が生きるに際しても、一定の決まりがあるのではないか、と考えたのである。それが「道」である。老子の教える「道」は「柔らかさ」をベースとするものであった。一定のことに先鋭化しないのが自然の姿であり、それい習うことで、人はもっともあるべき生涯を送ることができる、と考えたのである。 ...続きを見る

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2016/08/09 11:33
古道013
太上十三経注釈(223)老子 第十七章 欲望もまた人をして苦しむ原因となるものである。老子は欲望は乱れを生む、という。法律や倫理を超えてしまう原因となる、というのである。ここまで述べている「能力」「利益」「欲望」は、それが満たされれば、実に心地よいものであるが、一転してそれが過度になるとおおきな苦しみを生むことになる。これらは、また適度に、つまり少し足りないくらいで満足することのなかなかできないものでもある。しかし、老子はこうしたものこそ、過度にならないように「無為自然」であるようにしなければ... ...続きを見る

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2016/08/08 11:33
古道012
太上十三経注釈(222)老子 第十七章 ...続きを見る

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2016/08/06 16:28
古道008
太上十三経注釈(218)老子 第十六章 老子は「道たればすなわち久しく、身を没することあやうからず」と教える。 ...続きを見る

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2016/08/03 16:20
古道006
太上十三経注釈(216)老子 第十六章 注釈では「王」と「道」について、「至聖、至神」であるとか、「虚、至無」であるとかと言っている。 ...続きを見る

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2016/08/01 16:18

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