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<<   作成日時 : 2017/07/12 18:16   >>

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陳微明の太極拳論(45)
十三、収めるのと発するのは同じである。放つのと収めるのも同じである。断つのと連なるのもまた同じである(収めるはすなわちこれ発するなり。放つはすなわちこれ収めるなり。断ちてまた連なるなり)
【粘、化、打のはそれぞれに「意味があるが、これを分けることはできない。「収」とはつまり粘、化のことである。「放」とはつまりは打のことである。相手を打つ時に、こちらの勁は断たれてしまうようにも見えるが、その意識においては途切れるることはないのである】

太上十三経注釈(561)老子 第三十六章
注釈では「縮めようとするならば、先ずは広げなければならない」など、すべてこの世は相反するものによって成り立っている、とする老子の立場が改めて説かれている。つまり、これは「対極」の考え方である。しかし、この対立する二つのものは、たんに対立するだけではなく、ひとつの結びつきの関係をも有している。そうであるから「おおいなる対極」ということになる。その意味で「太極」といわれることもある。
太極拳でも、闘いという対立には、和合が含まれると、考える。たとえば徒手での闘いであれば、どうしても相手に触れなければ闘うことはできない。相手に触れるという行為は、愛情を表現する行為でもある。つまり一見して絶対の対立と見える闘い行為の中には、実は和合の要素が含まれていたのである。

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