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煉丹修道
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両儀堂公式ブログ 2015年6月20日よりブログ名を変更しました(旧「福徳円満」)

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タイトル 日 時
古道387
陳微明の太極拳論(81)太極長拳「序」 また太極拳には左式はあっても、右式のない動作がある。また右式はあっても、左式のない動作もある。こうした動作にもそれぞれ右式、左式を加えて左右があるようにした。また河南の陳家の伝える太極拳は古い形であるとされているが、その倒レン猴やロウ膝ヨウ歩は、左に右に後ろにと、転身の動きを極めて速く行っている。これも長拳に加えて、退歩ロウ膝としている。 ...続きを見る

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2017/08/17 13:51
古道386
陳微明の太極拳論(80)太極長拳「序」 太極拳においても、太極長拳にあっても、「ホウ、リ、セイ、アン、採、レツ、肘」の七種類の勁は等しくその中に含まれている。しかし、ただ長拳では「靠」だけを欠いている。そこで私は大り(推手)の中の「靠」を長拳に加えた。試行錯誤すること数年にしても、連貫転接の法を得ることができなかったが、今になって忽然と悟るところがあった。それは「相接とはつまりは区切りをつけないことである」ということである。この悟りを得られたことはまことに喜びに絶えないものがある。 ...続きを見る

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2017/08/16 13:50
古道385
陳微明の太極拳論(79)太極長拳「序」 楊澄甫先生が私に伝えてくださった太極拳には、太極長拳というものもある。長拳の中のいくつかは太極拳にはない動作もあるが、その他の動きは大体において太極拳も太極長拳も変わりはない。ただ転換の動きの前後に若干の身法の違いがあるくらいである。つまり、これは太極というものが、本来的には固定した動きのセオリーを持つものではなく、また固定した動きのフォームを持つものでもない、ということである。 〔注〕太極長拳は、現在では練習されることがほとんどない。太極長拳は、それ... ...続きを見る

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2017/08/15 13:50
古道384
陳微明の太極拳論(78)太極剣「序」 ただ時に剣では必ずしも粘をとらないこともあり、それぞれの剣が一、二センチも離れていることもある。しかし、そこには「粘」が働いているのである。これが本当の武当太極剣なのである。楊澄甫先生の伝えられたのは、二人が組んで行うことを定法とするものではないが、太極剣を練れば、武当太極剣の体も用も得ることができる。私は太極剣にさらに習熟して、改めて太極剣の本を書きたいと思っている。御寛恕を願いたい。 〔注〕武当剣は、当初、日本の剣術のように組んで行う形(対剣)が示さ... ...続きを見る

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2017/08/14 13:49
古道383
陳微明の太極拳論(77)太極剣「序」 以前、太極剣に精しい李芳宸将軍に伺ったところでは、不可思議な人の伝授を受けたのではない、と言っておられた。これは孫禄堂先生も同じことを言っておられた。今年、上海に行った時に李将軍を訪ねたが、李将軍は優れて気持ちの良い方であった。二人で剣の法を比べて語り合った。その意味するところは、全ては腰と腿の運用によるものであった。これは太極拳の推手における聴勁と同じである。 〔注〕近代になって李景林(芳宸)の伝えた武当剣が知られるようになった。武当剣は張三豊の伝えた... ...続きを見る

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2017/08/13 17:42
古道382
陳微明の太極拳論(76)太極剣「序」 本当は楊家では人に伝えないといったようなことはないのである。楊澄甫先生は、私に太極拳、剣を教えて下さった。拳術に関しては既に本を出している。今ここに太極剣術につて本を書いて、公刊したいと思うものである。この本を出すのも楊澄甫先生の御意向によるものである。太極剣の姿勢は、太極拳の姿勢を基礎としている。およそ太極拳の姿勢と共通することのない太極剣のあるのを私は知らない。 ...続きを見る

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2017/08/12 17:42
古道381
陳微明の太極拳論(75)太極剣「序」 私が北京にいた頃、河北の楊氏は太極拳にひじょうに通じているということを聞いて、学んでみたいと思っていた。楊氏に親しい何人かに聞いてみても皆、楊氏は簡単には太極拳を教えないという。弟子たちもそう言っていた。これは適切な人でなければ教えないということであったのである! 楊澄甫先生にお会いして、太極拳を学ぶようになってから、はじめて楊氏は太極拳を人に伝えないというようなことのないことを知ったものである。なんとしたことであろうか。楊氏の教えを得て、その技を学んでも... ...続きを見る

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2017/08/11 17:42
古道380
陳微明の太極拳論(74)太極剣「序」 易には「適切な人でなければ、道が正しく実践されることはない」とある。これは道を伝える時に適切な人を得ることの難しさをいっているのである。これは道だけではなく技芸においてもいえることである。黄百家は『内家拳法』で、技を伝えるべきではない五つの条件をあげているが、その第一にあるのが優しさのない人である。 ...続きを見る

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2017/08/10 17:39
古道379
陳微明の太極拳論(73) 老子は「天下の至柔は、天下の至堅を動かすことができる」と言っている。これは有無は無の中にある、ということである。また「争うことなく勝つことができる。召すことなくして、自ずから来ることがある」と言っている。これは「引進落空」「四両撥千斤」のことを言っているわけである。 〔両儀老人曰く、ここは老子の第四十二章と第七十二章からの引用である。第四十二章は至柔は至堅を動かすことができる、ということが述べられている。老子はこれを「無為の益」であるとしている。無為であるから至柔は... ...続きを見る

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2017/08/09 12:01
古道378
陳微明の太極拳論(72) 老子は「反は道の働きである」と言っている。そうであるから上があれば、必ず下があることになる。前があれば、必ず後ろがあることになる。左があれば右がある。 〔両儀老人曰く、ここは老子の第四十章からの引用である。老子はここで「反」こそが道の働きであると教えている。太極拳では「柔」を求めることで「剛」を得ようとする。「慢」を求めることが「快」を得ようとする。しかし、これがただ「柔」や「慢」のみに終始していたのでは「反」たる「道」の働きを見ることはできない。坐忘でいうなら坐忘... ...続きを見る

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2017/08/08 12:01
古道377
陳微明の太極拳論(71) 老子は「何かを縮めようとするならば、必ず張っておかなければならない。これを弱くしようとするのであれば、必ず強くしておかなければならない。何かを奪おうとするのであれば、必ず与えておかなければならない。こうしたことを微明というのである」と言っている。太極拳は「粘連綿随」である。相手に抵抗することはない。相手が張れば、こちらは縮まる。相手が強ければ、こちらは弱くなる。相手が奪えば、こちらは与えることになる。こうした後でこちらは張ることができ、強くなることができて、奪うことも... ...続きを見る

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2017/08/07 12:01
古道376
陳微明の太極拳論(70) 老子は「こまかものは完全なるものである。まがっているものは真直ぐである」と言っている。これは、曲の中に直を求めることであり、蓄えて後に勁を発することである。 〔両儀老人曰く、これは老子の第二十二章からの引用である。原文では「曲なればすなわち全し。オウなればすなわち直なり」とある。「曲」は一般には「曲がっている」と解される。次の「オウ」もまがる、ということであるから、「オウ」は身をかがめる意とする。ここでは「曲ー全」「オウー直」が対比されている。「曲」には「つぶさに。... ...続きを見る

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2017/08/06 12:00
古道375
陳微明の太極拳論(69) 老子は「一を抱くと、どうしてもそれと離れることはできない。ただ気が柔らかになって、嬰児のようになってしまう」と言っている。これは柔を極めて剛に至るということであり、すべての技は一に帰するのである。 〔両儀老人曰く、これは老子の第十章からの引用である。ここでは「至柔」が語られている。「至柔」を得るためには「一」を抱くことが求められる。「一」を抱くとは、全身が「一」つになることであり、それには「沈身」を得なければならない。「沈身」とは心身の協調である。これを得るには、肉... ...続きを見る

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2017/08/05 16:23
古道374
陳微明の太極拳論(68) 老子は「優れた善は水のようである。善いところに居て、善い境地に心が入っており、善い能力をして事を行い、善い時に動くのである。そして何ものとも争うことはない。そうであるから憂いを持つこともないのである」と言っている。「善いところに居て」とは、機を得ることで技の勢を得ることができる、ということである。「善い境地に心が入っており」とは気が収斂することで神も収斂することをいっている。「善い能力をして事を行い」とは、その時々に応じて対処することである。「善い時に動く」とは、遅れ... ...続きを見る

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2017/08/04 16:23
古道373
陳微明の太極拳論(67) 老子は「身を後にすれば、その身は先に動くことができる。その身を外にすれば、その身は存することができる」と言っている。「身を後にすれば、その身は先に動くことができる」とは、相手が動かなければ、こちらも動くことはない、ということである。そして相手が少しでも動こうとしたならば、こちらは先に動くことになる。「その身を外にすれば、その身は存することができる」とは、自分で動こうとしたならば、その動きは滞ったものになってしまうが、相手の動きに随って動けば自在に動くことができる、とい... ...続きを見る

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2017/08/03 16:22
古道372
陳微明の太極拳論(66) 老子は「綿綿としてあるようであり、これを使おうとしても無理がない」と言っている。「綿綿としてあるようであり」とは、内に精神を固めることである。「これを使おうとしても無理がない」とは外面的には静が示されるということである。 〔両儀老人曰く、これは老子の第六章に出ている一文である。柔らかさをベースとした連続性を示す「綿綿」は、まさに太極拳を形容するものとしてふさわしいであろう。太極拳の拳訣にも「綿綿不断」がある。太極拳でも、坐忘においても「綿綿」は呼吸の状態をいうもので... ...続きを見る

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2017/08/02 16:22
古道371
陳微明の太極拳論(65) 老子は「天地の間は、まるでふいごのようである。これは虚であっても屈することなく、動けばおおいに働くことができる」と言っている。つまり太極拳には特定の技はないが、動けばそのまま技になる、ということである。 〔両儀老人曰く、ここは老子の第五章である。老子は天地の間に「ふいご」のあるイメージを提示しているが、これは「風」のことである。小天地である人体においては「息」である。日本神話では「スサノヲ」がこれにあたる。「屈する」とはつぶれるような意味で、虚であってもすぐにつぶれ... ...続きを見る

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2017/08/01 16:22
古道370
陳微明の太極拳論(64) 老子は「有と無はそれぞれに応じて生まれるものであり、前後はそれぞれに関係を持つもっている」と言っている。これは左に体重をかければ(右半身となるので)左は虚となり、右に重心をかければ(左半身となるので)右の間合いが遠くなる。こうして体重を移して進めばどこまでも進むことができるし、退いてもどこまでも退くことができるのである。 〔両儀老人曰く、ここは老子の第二章である。原文では「有と無はそれぞれに応じて生まれるものであり」と「前後はそれぞれに関係を持つもっている」の間に「... ...続きを見る

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2017/07/31 16:17
古道369
陳微明の太極拳論(63) 太極合老説 老子は「常に無欲であればその妙を観る。常に有欲であればそのキョウを観る」と言っている。これは粘随のことであり、その化の妙を観ることが述べられているのである。勁を発する機は突然に現れる。このことをキョウを観るとしているのである。 〔両儀老人曰く、老子の第一章からの引用である。この部分は「常に無はもってその妙を〜」のように読み下すのが一般的であろうが、ここでは「常に無欲たればもってその妙を観る」と解した。「キョウ」は「境界」とされるが、白い光が巡る様子を示... ...続きを見る

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2017/07/30 16:17
古道368
陳微明の太極拳論(62) ここに伝えられているのは、王宗岳の著すところのものである。太極拳の精緻な奥妙は、ここに出尽くしている。私の見解により簡単な注釈を付しているが、こうした教えは読む人それぞれの見方で受け取れば、功夫もますます深くなることであろう。この教えを読んで更にその奥妙を知ることができるであろう。まじめに練習をしていけば、ひじょうに大きなものが得られることであろう。 ...続きを見る

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2017/07/29 16:17

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土曜15時半〜17時
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日曜13時半〜15時

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適宜

【連絡先】baguamen@outlook.jp

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